阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「クローズド・キッチン」出崎哲弥
「おーい」
夕食後のリビング。ソファから首を回して、夫がキッチンの妻に呼びかけた。カウンターの向こうで洗い物をする妻に、反応はない。
「おぉい!」
夫は再度呼んだ。
「ん。何か用?」
妻はシンクの水を止めて顔を上げた。
「何か用、じゃない。用があるから呼ぶのに決まってるだろ。だいたいひとが呼んだらすぐ答えろよ」
言いながら、夫の上半身は徐々に妻の側へ大きくねじられていった。
「聞こえなくて。で何?」
「耳かきどこいった?」
「なんだ、電話の横でしょ」
拍子抜けしたような口調に夫はいら立った。
「そこにないから聞いてるんだ」
「沙紀が部屋へ持っていってるんじゃない」
「沙紀が? 一人で耳かきはあぶないだろ」
「何言ってるの。何回も使ってるわよ。太一はともかく、沙紀はもうすぐ中学生なのよ」
「う……そんなことより、二回も呼ばせるな。聞こえないわけないだろ」
蒸し返す夫に、妻が眉をひそめた。
「集中してたのよ。いいかしら、そこにいつも座ってテレビを見たりゴルフクラブ磨いたりしているあなたに、私が話しかけたとするじゃない。十回のうちまず七、八回は、まともに聞いてないわ」
「オレはちゃんと返事をしてる」
「適当な相づちでしょ。そんなの意味ない」
「逆ギレもいいかげんにしろよ」
「何が逆ギレよ。私の話は、子どもたちのことやお金のこと。たいてい大事な家のことなのよ。あなたの話は、せいぜい耳かきじゃないの」
妻は一気にまくしたてた。
「あー、もういい。やめだ、やめ」
夫は勝手に打ち切ろうとした。妻は許さなかった。
「あなたは帰るとそこで、自分だけの世界にひたってる。でも、私が同じようにしたら絶対に許さないのよ。お給料が高いから? 外で働いてるのは一緒じゃない」
妻の目が据わっている。夫は、経験から沈黙を選んだ。――実際、翌朝妻は、何事もなかったように夫に接した。
ただ、そこからリビングの様子が、徐々に変化していった。まず、オープンキッチンのカウンターに、フラワーバスケットが置かれた。しばらくすると、カウンターの「窓」に、プレスリーの袖のようなフリンジカーテンが下げられた。
「なんだ縄のれんか? 居酒屋みたいだな」
夫が冗談めかして言った。
「素敵でしょ」
妻は微笑んだ。
リビングからキッチンの妻が見えにくくなっていることに、夫はまだ気づいていなかった。妻がキッチンにいる時間が増えていることにも……。
つづいて妻は、キッチンの入口にあたるところに、アコーディオンカーテンを取り付けた。「相談もなく勝手なことをするな」と夫は言おうとした。しかしためらった。結婚以来、相談なしに勝手なことをしたことのない妻だけに、かえって不気味だった。それに妻の態度に変化はない。キッチンからもたらされる料理も、今までと変わらない。いや、今まで以上に手がかかっているくらいだった。
朝夕、夫はフリンジカーテン越しに、妻の姿をそっとうかがうようになった。イヤホンを装着した妻は、体で小さくリズムをとるようにしながら料理をしている。煮込み料理の待ち時間には、丸椅子に腰掛けて文庫本を開いている。もともと台所に入ることなどなかった夫である。カーテンのせいもあって、ますますキッチンは遠く感じられた。
最後の仕上げも夫の留守中に行われた。
帰宅した夫は、リビングが狭くなったような違和感を覚えた。フラワーバスケットもフリンジカーテンも、もうなかった。代わりに、カウンターの「窓」は、化粧板ですっかりふさがれていた。夫は、キッチンの入口へ回り込んだ。アコーディオンカーテンの端には、新たに鍵が取り付けてある。
夫は声を上げかけた。ちょうど中から妻が現れて気をそがれた。
「あら、お帰りなさい」
平然と妻は言った。そのまま「ごはんよー」と、子ども部屋へ声をかけた。
いつものとおり家族四人で食卓を囲む。会話の輪に夫が入りきれていないのは、今に始まったことではない。
食事を終えた夫は、いつものソファに移った。テレビのリモコンを手に取る。子どもは、食器を下げたその足で、自分たちの部屋へ。妻はアコーディオンカーテンの向こう側へ消えた。鍵をかける音が小さく聞こえた。