阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「壁」宮本ことん
僕の住んでいる外表町には、変なおじさんがいる。通称、壁叩きおじさんだ。なぜ、壁叩きおじさんというのかと言うと、壁を叩いているからだ。ただ、それだけ。でも、とても真剣に叩いているから、みんなは気味悪がっている。僕だって、気味が悪いと思っている。
今日の下校中、運の悪いことに、壁叩きおじさんに会ってしまった。「挨拶は、元気にハキハキにっこりと」が、僕のクラスのスローガンなので、壁叩きおじさんにも挨拶をした。
「こんにちは」
返事はなかったよ。おじさんは、壁を叩くことに集中していて、僕の元気で、ハキハキしていて、にっこりした挨拶に気が付いてなさそうだったんだ。せっかくの完璧な挨拶を無視されたわけだから、僕はむっとしたけど、それだけ夢中にさせる壁叩きに、僕は少し興味を持った。
それから、下校途中に壁叩きおじさんを観察するのが、僕の日課になった。
コンコン、コンコン。壁叩きおじさんは、毎日飽きずに壁を叩いている。
コンコン、コンコン。よく見てみたら、手を怪我しないように、手の甲に金属をつけている。だからあんなにいい音がするのか。
コンコン、コンコン。壁を叩く人は、このおじさんが初めてではない。前にも、その前にも、そのまた前にも、壁を叩く人はいたんだって。お母さんが言っていた。
コンコン、コンコン。なんで壁を叩くのか、聞いてみた人はいるけど、答えてもらった人は、まだいない。
コンコン、コンコン。叩こうとするのを止めた人もいるけど、みんな、言うことを聞かずにずっと壁を叩こうとするらしい。
コンコン、コンコン。これは呪いだ、なんていう人もいる。
コンコン、コンコン。コンコン、コンコン。ん? あれれ、聞き間違いかな。さっき、おじさんが叩いた後、壁からコンコンって聞こえたような。
コンコン、コンコン。コンコン、コンコン。おじさんがもう一度叩くと、やっぱり、壁から音がした。おじさんを見ると、とてもうれしそうに、にこにこしている。すると、ブロック塀だったただの壁がするすると動き、長方形の大きな跡ができ、美しい装飾が施され、持ち手を作り、豪華な扉になった。おじさんは手に付けていた金属をはずすと、素敵な笑顔を浮かべながら、僕に差し出してきた。
「こんにちは。私にはもうこれは必要ないから、君にあげるよ」
僕が受け取るのを確認すると、おじさんは扉に向き直った。ゆっくりと取っ手を握り、押す。扉は開いた。中には、雲が優雅に漂っている青空と、雄大な山から流れる、澄んだ小川と、遠くに石造りのかわいらしい家が数軒見えた。緑の芝生には、色とりどりの花が咲いており、太陽に照らされ、宝石のように輝いている。花の匂いだろうか、なんとも言えない甘い香りが、道路に充満した。
おじさんは、中を確認した後、満足げに深呼吸をし、入っていった。扉が閉まる。僕は慌てて取っ手をつかもうとしたけれど、閉まったとたんに扉は溶けるように無くなった。あとには、いい香りだけが残った。しかし、それも次第に薄まっていく。落ち込んでうつむくと、おじさんからもらった金属が見えた。何度も打ち付けられてきたようで、傷やへこみが目立つ。恐る恐る手にはめてみた。それは、僕にはまだ大きかったが、これでもう、壁を叩いても手は怪我をしないということが分かった。腕を上げ、さっき扉のあったところめがけて叩いてみる。コンコン、コンコン。しかし、何も起こらない。失望と同時に、なぜか、扉は移動したのだ、という考えが頭に浮かんだ。この町のどこかに。
金属をつけた自分の手を見た。おじさんは、何十年叩き続けたのだろう。