阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「クモ」上島栞
隣部屋から、
「おーい!」
と、声がした。何事だろうと気にしながらも、そのまま横になってテレビを観ていた。まもなく、旦那が慌てながらリビングに入ってきて、扉を素早く閉めた。その旦那が、そわそわ落ち着きのない様子で、
「足長クモがいるぞ。何とかしてよ」
と、いうので仕方なく重い体を起こした。
棚から冷凍殺虫スプレーを取り出し、クモがどこに居たのか聞いた。どうやら、リビングを出たところの階段にいたらしい。ああ、なんとも嫌な気分だ。私は、そっとドアを開け階段を見たが、クモの姿はない。
「隠れたか。きっと近くにいるな」
私は目と耳の神経を集中させ、微かな動きがないか様子を伺っていた。
「どう?」
背後にいる旦那に聞かれたが、辺りを見回してもクモの気配が無い。苛立った私は、
「ったく、もう。自分で退治しなよ」
と、言った時だった。うしろから、うわっという旦那の叫びが聞こえたので振り向くと、クモがすごいスピードで階段の壁に現れた。全長が顔くらい大きい足長のクモだった。クモは、まるで壁にかかったオブジェのようにじっとしていた。想像以上の大きさのクモに動揺したが、これを野放しにするなんて気持ちが悪すぎると思った。
私は息を止め、クモに気づかれないようジリジリと階段を登った。しかし、クモのいる場所まであと五メートルというところで恐怖と息苦しさで辛抱出来なくなり、その場で冷凍スプレーをかけてしまった。スプレーから白い霧が立ち、何も見えなくなった。ああ、これで逃げられたな、厄介なことになったなと思っていると、霧が少し薄くなってきた。しかしまだ視界がボヤけている。スプレーが少し目に入ったのだろうか? とりあえず階段を降りよう。そう思った瞬間、体がふわりと浮いた感じになり、転がり落ちてしまった。
イタタ……? あれ、痛くない。派手に落ちたように思ったが、全然痛くない。起き上がってみると、さっきよりは視界も晴れてきた。
でもなーんかおかしい。うちにこんな大きな壁あったっけ? いやいや、そんなはずは……。私は、立ち上がろうと足元をみた。すると……。私、クモになっちゃってる? これ、さっき見たクモの手足にそっくりじゃない? ちょっと、どうしよう! 旦那は? どこ? わたしが急に居なくなってびっくりしてるよね。まさか、私とクモが入れ替わるだなんて、そんな恐ろしいことになってないよね? 私は、どうしたらいいの? 急に巨大化した家の中で、自分がどこにいるかもう分からないよ。ここは、いったいどこ? えっと、えっと……。ああ、ここは玄関だ。鏡がある。鏡で今の自分の姿を確かめるべきか? ダメダメ! 見たら、元に戻れない気がする。もし、本当にクモになっていたら、家族に殺されてしまう。見つかったら終わりだ。と、とにかく隠れよう。でも、どこかの隙間やなんかには怖いから入りたくない。うーん。この際だから、この壁に登ってみるか。こうしてみると、壁ってすごく直角で怖いな。でも、自分を信じて登るしかないか。よし、私はクモだ。スイスイ登れる……と、言い聞かせながら二、三歩……。おお、足は軽い。さっきまで、からだが重くて横になってたのが嘘みたい。更年期の壁を越えたか、うふふ。この調子でスイスイ登っていこう。いやー、思ったよりいいじゃないのよ。白い壁を登っていくと、まるでアルプスの山に登ってるみたい。きれーい! 天井にもう着いちゃった。ヤッホー! 一度も山に登ったことなかったけど、やっぱりヤッホー! って言っちゃた。クモになっても思考は中年のおばさんなのは残念だけど、なんとも清々しい! こんな上なら家族にバレないし、捕まえる事も出来ないから、ちょっと一休みしよっと。
「おーい、おーい」
ん? おっと、しまった! 旦那に見つかっちゃったのか! 私だよ! 殺さないで!
体を大きく揺さぶられ、目を開けた。
「おい、さっきからずっと呼んでるのに。まるで、クモが這いつくばった様な格好で寝るなよ」