阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「楓」峯本盟子
目の前に大きな壁。左右に続く長い壁。その終わりは簡単に確認できない。見上げても同じことだった。どこまで続いているのだろう。足元に赤い砂。他には何も見当たらない。ポツリと一つ縦長の穴が開いているのを遠目に見付けた。ここに突っ立っていても仕方がないので穴を覗きに行くことにした。
意外なことにその穴は畳一畳ほどもの大きさがあり容易に向こう側を覗けた。そこには真っ白な月。麗しい新月の夏至の夜。葉の全て落ちた大きなヒイラギの木が一本、真っ赤な実をその痩せた枝にたっぷりとぶら下げていた。白い砂との対比がとても切ない。他には何も無い。ただチクタクと風が吹いていた。
壁の向こう側に入り込んでいる自分の影に気づき、ゆっくりと振り返ってみた。力強く照り付ける矢のような光に手をかざし、その眩しさにチラチラと目を細めていると足元にぬらっと人影が伸びてきたのを見付け驚いて小さく震えた。
身を翻すと壁の向こうに彼が立っていた。履き古したお気に入りのストレートのブルージーンズ、いつもの黒のTシャツにブーツ姿だった。半袖からのびている陽に良く焼けた少し厚みのある筋肉質で健やかな腕、アタシは彼の盛り上がった肩から指先までのその一片が大好きだったのを思い出した。
「声ぐらい掛けてよ。そっと近寄ってくるから驚いちゃったじゃない」
以前のアタシなら怒り狂っていただろう。今日はなんだかしおらしい。彼はニッコリと笑うと壁の穴の淵に黙って腰かけた。
「そっちに行っても良い?」
返事を待たずにアタシは壁の向こう側に一歩踏み込むとそのまま彼の隣に座った。並ぶ四つの膝。二人の間の微妙な短い距離が余りにも遠くに感じて悲しさを覚えた。ぎこちなくそっと彼の肩にもたれてみた。微動だにしないその体躯に一緒に過ごしていた頃に時々垣間見た頼りなさは全く感じられなかった。
「会えなかったけど、元気してた?別れると本当に連絡もくれないのね」
不満を漏らしたが、当然の報いだった。優しい彼に甘え我儘に悪態をつき続けたアタシ。献身的な彼は八年もの時間を費やしてくれた。横暴だった自分を思い出した。膝の上に置いた自分の手を見つめた。新月を恨めしそうに見つめていた彼は、肩にもたれたアタシの頭にそっと右手を添えてくれた。アタシの右手は彼の左手に繋がれていた。なんて豊かな世界なんだろう。このままでいたい。
「最後に会ったのっていつだったっけ」
アタシの右手をギュッと握り返すも彼からの言葉は何も無かった。それでも良かった。そもそも、アタシ達どうして別れたんだっけ。
無気力な感覚の中、ふと足元の白い砂に視線を移すと背後から流れ込んでいる光は砂の上にアタシの影を描いてはいないことに気付いた。左肩の上で弧を描いた右手が不自然に浮かぶ彼の影しか描かれていなかった。その時、彼はそっとキスをしてくれた。唇が離れたと同時にアタシは彼に突き飛ばされた。背中から赤い砂に叩きつれられようとした刹那、地面に大きく開かれた真っ黒な闇にアタシは堕ちていった。彼は腰かけていた壁の淵に手をかけ堕ちていくアタシを見ていた。彼が何か短く言ったのが見えた。泣きそうな顔で微笑んでいた。なんて言ったの。堕ち続けていくアタシ、彼の影すら見えなくなった。
ベッドの中で静かに目を覚ましたアタシは寝具を湿らすほどにたっぷり汗を掻いていた。巷で大流行のインフルエンザにかかってしまい、昨日から部屋で一人床に臥せっていた。カーテンを閉め忘れた窓から天高く鎮座する満月の明かりが差し込んでいてベッドを照らしていた。テーブルの上の時計はしたり顔でチクタクと深夜一時を示している。
最後に会ったのっていつだったっけ…八年、八年前だ。上野駅の改札口で次に会う約束をして別れたのを最後に、彼は季節の変わり目にかかった風邪をこじらせ、呆気なく眠るように死んでいった。改札を通った彼は振り向き大きく手を振りながら満面の笑みで動いたその口は「またね」と言っていた。
死した者と生ける者とを分ける壁…神様は意地悪だわ。向こう側に入り込める大きな穴を創るなんて。もしあの時アタシの影さえも全て向こう側に入っていたら永遠にアタシは彼の隣にいれたのかな。でも、彼は望んではいなかった。涙がこぼれてきた。唇に流れ落ちてきたそれはとてもしょっぱかった。
夢と現実を分かつものが眠りという壁ならば、生と死を分かつものもまたしかり。神様、アタシはどれほどの罪を犯したのでしょうか。罰は幾らでも受けます。だけど、どれだけ償えばアタシは許してもらえるのでしょうか。アタシは彼の近くにいたい。もう一度彼の声が聞きたい。
だから神様、もうアタシを許して下さい。