阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「壁に穴」朝霧おと
婚活で知り合った悟さんは私好みのステキな男性だ。まだ三度しか会っていないが、お互いの目的が結婚ということもあり、今夜あたり――結婚を前提につきあってください、と言われそうな気がする。四十一歳にしての初体験。うれしいような恥ずかしいような複雑な心境だ。
二十代は仕事も遊びも忙しくて結婚なんかする気もなかった。三十代に入ると、さすがに焦り始めたが、相手に望む条件が年を追うごとに高くなり、余計に縁遠くなった。四十歳を超えて初めて「この人」と思える男性に出会えたのは奇跡に近いのではないか。
悟さんは四十六歳、もちろん初婚ではない。十年前に結婚して一年で別れたというのだから、ほとんど初婚だ。私はそう自分に言い聞かせている。
友人の聖子にこの話をすると、真剣な顔でアドバイスをしてくれた。
「たった一年の結婚生活か。奥さんとのいい思い出なんてないだろうね。これからはあっちゃんとダンナ様ふたりの思い出を作っていけばいいと思う。ただ……」
聖子のもったいぶった口ぶりに、私ののどの奥がゴクリと鳴った。
つい最近二度目の離婚をした聖子は、私と比べると経験豊富だ。聖子の言うことはある意味信頼するに足るはずだ。
「一年は早すぎるよね。どんな理由で離婚をしたの?」
「それが、性格の不一致としか言ってくれないの。それ以上聞くのも気が引けるし、くわしくは聞き出せずにいる」
早い離婚はラッキーだと思っていたが、聖子に言わせると逆にヤバいらしい。
「何かあるのかもね。モラハラ、DV、女、マザコン、変な趣味とか。前の奥さんとの交際期間はどれくらいだったんだろう。まあ長くつきあっていても、いざ結婚したら豹変する男もいるからなんともいえないけど」
悟さんは断じて変な人ではない。サラリーマンでお酒が苦手で心おだやかな人だ。そんな人だからこそ、豹変したらすごいことになるのかもしれないが。
「もし彼のマンションに行くことになったら、しっかり観察しておくことね。女装用の衣装がないか、洗面所に女の痕跡がないか、またあまりにきれいに片付いていたら、母親がちょくちょく来ていることもありえる。姑なんて鬱陶しいだけよ。私はそれで離婚したんだから。あと……壁に穴がないか」
「壁に穴?」
「今のマンション、前の結婚と同時に買ったんでしょ。壁の穴やへこみは暴力の証になるよ」
なるほど。数々の修羅場をくぐり抜けてきた聖子の言葉には説得力があった。
その夜、悟さんとレストランで食事をした。
「敦子さんとこれからもお会いしたいと思います。結婚を前提に」
キターッ! 胸の内でガッツポーズをする私。しかし私に無駄な時間はない。このままお付き合いを続けるか、深入りする前にやめるかのどちらかだ。
「その前に、今夜お家を見せてもらえませんか?」
「今夜? 敦子さんをご招待するには散らかっているし恥ずかしいです。また日を改めて」
だから今なのだ。隠すことのできない今でないと意味がないのだ。知り合って間もない男性の部屋に入るには勇気がいるが、それも自分の幸せのためだと思うと仕方ない。
悟さんのマンションはごくごく普通だった。飲みかけのグラスや新聞がテーブルの上に無造作に置かれ適度に散らかっていた。
「今、片付けますから」
あたふたと片付け始めた悟さんを横目に、私はすばやく点検を開始した。洗面所を借り、その後さりげなく寝室をのぞく。そこには聖子が言っていたような不審な点はいっさいなかった。
「コーヒーをどうぞ」
コーヒーの淹れ方は完璧だ。私はホッとしてソファに座った。一口飲んでふと顔を上げたときだ、真正面の白い壁にくぎ付けになった。大小さまざまな壁の穴が一つ、二つ、三つ。
悟さんのキレている姿が私の頭の中をかけめぐる。真っ赤な顔をして迫ってくる彼、吹っ飛ばされ壁に激突する私。
呆然とする私に悟さんが不安な目を向けた。
「あのう、なにか?」
私は怯えながら壁を指さした。
「ああ、あれ……お恥ずかしい話ですが、前の嫁がやりました。暴力がすごくて、はい。あの、すぐに修理します」
悟さんのみじめな顔が私の胸を突き動かす。思いがけなく彼への愛おしさがこみあげ、私は初めての感情にどうしようもなくうろたえた。