阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「この壁を、越えろ」ゆい子
予備校の夏期講習が始まった。周りは毎日ピリピリしている。講師も、受講生も、教室の空気も。僕一人がついていけていない。
どの講師も一度はこう叫ぶ。
「この夏で人生が決まるんだ!」と。
本当なのかな。僕はまだ、「あの夏で人生が決まりました」と語る大人に出逢ったことがないけど。しかし講師にも両親にも訊けない。めんどくさいお説教をいただくだけだ。
今日の講習が終わり、僕は二階の教室から階段で一階のロビーに降りた。
ロビーには夏期講習受付のポスターが二十枚ほど並べて貼られている。
ポスターの中では、セーラー服を着た女子が棒高跳びで高いバーを越えようと挑んでいる。その女子の目は何の迷いも不安もなく、まっすぐだ。背景に小さく写っている空は爽やかで、抜けるような青空。
『この壁を、越えろ!』
僕はポスターに書かれたキャッチコピーを呟くように読んだ。
すると隣に立っていた友人の美亜が
「越える前にパンツ見えちゃうよ。スカートで跳んじゃいかん。」
とポスターにツッコミを入れた。
それが聞こえた周りの数人がクスクス笑い、近くにいた講師が僕と美亜を睨んだ。僕は思わず下を向いたが、美亜はケラケラ笑っていた。
僕を巻き込まないでほしい。僕はただ無難に傷つかないように過ごしていたいのだから。
予備校の帰り、僕はチェーン店のカフェに寄った。そんな時間があるなら単語の一つでも覚えればいいのだが、短い時間でいいから現実逃避したかった。
一番安いコーヒーを買い、窓際のカウンター席に座った。飲みながら街を歩く人々をぼんやり眺めた。なぜみんな楽しそうなんだろう。なぜ意思を持って行動しているんだろう。そんなことを考えていた。
十分ほど経っただろうか。椅子一つ空けた右側に女性が座った。あまりにも美しいので、つい凝視してしまったが、すぐに自制した。しかしなぜか気になってチラチラ見てしまった。
こんなきれいな人、知り合いじゃないよな。でもどこかで見た気がする。
すると僕の視線に気がついた彼女はニコッと笑って、言った。
「ヒント。この壁を、越えろ。」
「あっ!」
僕の記憶の中にある夏期講習のポスターの女子と目の前の美しい彼女が、やっと頭の中で重なった。
「君、受験生?」
彼女は僕の隣の椅子に移動してきた。近くて緊張する。
「うん、君もだよね?」
「私?違うよ。私はモデル。有名じゃないけど。」
ああいうポスターは本当の受験生ではなく、モデルがやるものなのか。
「大学、どこ受けるの?」
「一応東大。今一浪中。」
「東大で何をやりたいの?」
僕は答えられなかった。そんなこと訊かれたことがなかった。
「父親が東大だったし。やりたいことはまだわからないよ。学部もいくつか受けるから受かったところによって変わるし。」
なぜか僕は言い訳みたいに必死に抵抗した。
「あー、そんな感じ。目、死んでる。」
美しいけどずいぶん失礼な人だ。僕は我慢ならなくて、無視をした。しかし彼女は気にしないみたいだった。
「やりたいことや好きなことが見えてなきゃ、きっとまた受かんないよ。」
「そういうあんたは何かあるのかよ。」
「私はね、今はまだ大きい仕事はもらえないけど、いつか絶対、女性誌の表紙を飾るモデルになるって決めてるの。」
その目標がどのくらい大変なことなのか、僕にはよくわからない。
「この壁を、越えろ。ってあのキャッチコピー、なんか変。壁なんて、好きなことをとことんやりきるって決めれば、簡単に越えられちゃうのに。」
そして彼女はポスターと同じ、迷いも不安もない、まっすぐな目で僕を見つめた。
彼女が羨ましかった。僕もこんなまっすぐな目になれたら、壁を越えられるのだろうか。
「見つけるよ、自分の意思。見つけたら。またここで逢ってくれる?」
彼女は小さく頷いた。