阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「壁の音」吉岡幸一
コンコン、カツカツ……。
今夜も壁をたたく音が聞えてくる。引っ越してからというもの毎日この音に悩まされている。せっかく新築の単身者用一DKマンションを借りられたというのに、快適に過ごすどころか眠られもしない有様だ。
隣の部屋の住人は僕とおなじくらいの年齢の女だ。二十代後半といったところだろうか。引っ越しの挨拶に行ったときは、気さくできれいな人という印象だったが、持って行った引っ越し蕎麦が嫌いだったのだろうか。蕎麦アレルギーでもあったのかもしれない。それで僕を恨んで、夜になると壁をたたく嫌がらせをしている可能性も考えられる。
部屋のなかで騒いだり物音をたてたりしていることはない。音楽だって音量をさげて聞いている。僕は他人に迷惑をかけることが嫌いなのだ。静かに生活をしているつもりだ。いくら考えたって他に思い当たるようなことはなかった。
それでも一週間は我慢した。そのうち止むのではないかと思ったからだ。しかし壁はたたかれ続けた。堪りかねた僕はある夜、隣の部屋にいった。直接苦情を言うつもりだった。なんとしても壁をたたくことを止めてもらわなければならない。
呼び鈴を押すとすぐに女は出てきた。
「壁をたたくのを止めていただけませんか」
僕はストレートに用件を言った。下手にでるには感情が高ぶりすぎていた。
「そちらこそ、壁をたたかないでいただけますか。嫌がらせはやめてください」
女はいまにも掴みかかってきそうな勢いで答えた。
僕らは顔を見合わせた。お互いに相手が壁をたたいていると思っていたのだ。
「たたいていないんですか」
「たたいてなんかいませんよ。あなたの部屋に向かって壁をたたく理由なんてありませんから」
そういえば二人ともドアの近くにいるというのに、コンコン、カツカツと、なぜか壁がたたかれている音が続いている。
「ごめんなさい。てっきり隣のあなたが壁をたたいていると思って」
「こちらこそ、ごめんなさい。私を追い出したいのかって思っていました」
「じゃ、だれが壁をたたいているんだろう」
「もしかしたら、マンションの構造上の問題かもしれませんね」
「なるほど、配水管か空調か、なにかの音が伝わってきているのかも。明日にでも管理会社に連絡してみます」
翌朝、さっそく僕はマンションの管理会社に問い合わせてみた。管理会社はすばやく調査をしてくれたが、マンションの設備に問題はなかった。嘘を言っていない証明に夜、管理会社の人に来てもらい、実際壁がコン、カツとたたかれていることを確認してもらった。
「不思議ですね。マンションの作りに問題はないのですがね。防音工事でもしましょうか」
管理会社の人の勧めもあり、僕は壁に防音工事をしてもらうことにした。分厚い防音素材を壁に貼付け、これでもう壁をたたく音からは解放されると思っていたが、夜になるとコンコン、カツカツと壁をたたく音は聞え続けた。防音工事の効果はなかった。むしろ以前よりも音は大きくなったようだった。
隣の女に防音工事の効果を聞きにいくと、隣の部屋でもそれは同じようで、壁の音は日増しに大きくなっているということであった。
「私、引っ越しを考えているの。ここがすごく気に入っていたんだけど」
女は目の下にクマを作っていた。
「壁の音さえなければ、ここはすごい良いところだと思うんだけどね」
「幽霊でもいるのかしら」
「新築だから、ここでなにか不幸な事件があったとかはないと思うよ」
「……」女は救いをもとめるように僕を見つめてきた。そのとき、僕らの意思はひとつに重なったように思えた。気づかなかったあまい感情が、僕の胸の鼓動をはやくしていた。
僕らは頷きあうと、すぐに管理会社へ電話をした。管理会社の人は驚いていたが、建てたばかりのマンションに変な噂がたつのを恐れていたようで、すぐに快諾してくれた。
「本当にいいんですね」
念をおしたあと、すぐに工事がはじまった。僕の部屋と女の部屋を隔てていた壁は取り払われた。僕と女の部屋はひとつに繋がった。
たたく壁がなくなれば、たたかれることもなくなる。二人ともそう考えていた。
「これで壁の音に悩ませられることもなくなるね」と、僕が言うと「これからはあなたのイビキに悩まされるかも」と、女は僕の肩にもたれかかりながら甘えた声で答えた。
それから壁の音はしなくなった。なぜコンコン、カツカツという音がしていたのか理由はわからないままだった。