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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「壁の音」吉岡幸一

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第58回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「壁の音」吉岡幸一

コンコン、カツカツ……。

今夜も壁をたたく音が聞えてくる。引っ越してからというもの毎日この音に悩まされている。せっかく新築の単身者用一DKマンションを借りられたというのに、快適に過ごすどころか眠られもしない有様だ。

隣の部屋の住人は僕とおなじくらいの年齢の女だ。二十代後半といったところだろうか。引っ越しの挨拶に行ったときは、気さくできれいな人という印象だったが、持って行った引っ越し蕎麦が嫌いだったのだろうか。蕎麦アレルギーでもあったのかもしれない。それで僕を恨んで、夜になると壁をたたく嫌がらせをしている可能性も考えられる。

部屋のなかで騒いだり物音をたてたりしていることはない。音楽だって音量をさげて聞いている。僕は他人に迷惑をかけることが嫌いなのだ。静かに生活をしているつもりだ。いくら考えたって他に思い当たるようなことはなかった。

それでも一週間は我慢した。そのうち止むのではないかと思ったからだ。しかし壁はたたかれ続けた。堪りかねた僕はある夜、隣の部屋にいった。直接苦情を言うつもりだった。なんとしても壁をたたくことを止めてもらわなければならない。

呼び鈴を押すとすぐに女は出てきた。

「壁をたたくのを止めていただけませんか」

僕はストレートに用件を言った。下手にでるには感情が高ぶりすぎていた。

「そちらこそ、壁をたたかないでいただけますか。嫌がらせはやめてください」

女はいまにも掴みかかってきそうな勢いで答えた。

僕らは顔を見合わせた。お互いに相手が壁をたたいていると思っていたのだ。

「たたいていないんですか」

「たたいてなんかいませんよ。あなたの部屋に向かって壁をたたく理由なんてありませんから」

そういえば二人ともドアの近くにいるというのに、コンコン、カツカツと、なぜか壁がたたかれている音が続いている。

「ごめんなさい。てっきり隣のあなたが壁をたたいていると思って」

「こちらこそ、ごめんなさい。私を追い出したいのかって思っていました」

「じゃ、だれが壁をたたいているんだろう」

「もしかしたら、マンションの構造上の問題かもしれませんね」

「なるほど、配水管か空調か、なにかの音が伝わってきているのかも。明日にでも管理会社に連絡してみます」

翌朝、さっそく僕はマンションの管理会社に問い合わせてみた。管理会社はすばやく調査をしてくれたが、マンションの設備に問題はなかった。嘘を言っていない証明に夜、管理会社の人に来てもらい、実際壁がコン、カツとたたかれていることを確認してもらった。

「不思議ですね。マンションの作りに問題はないのですがね。防音工事でもしましょうか」

管理会社の人の勧めもあり、僕は壁に防音工事をしてもらうことにした。分厚い防音素材を壁に貼付け、これでもう壁をたたく音からは解放されると思っていたが、夜になるとコンコン、カツカツと壁をたたく音は聞え続けた。防音工事の効果はなかった。むしろ以前よりも音は大きくなったようだった。

隣の女に防音工事の効果を聞きにいくと、隣の部屋でもそれは同じようで、壁の音は日増しに大きくなっているということであった。

「私、引っ越しを考えているの。ここがすごく気に入っていたんだけど」

女は目の下にクマを作っていた。

「壁の音さえなければ、ここはすごい良いところだと思うんだけどね」

「幽霊でもいるのかしら」

「新築だから、ここでなにか不幸な事件があったとかはないと思うよ」

「……」女は救いをもとめるように僕を見つめてきた。そのとき、僕らの意思はひとつに重なったように思えた。気づかなかったあまい感情が、僕の胸の鼓動をはやくしていた。

僕らは頷きあうと、すぐに管理会社へ電話をした。管理会社の人は驚いていたが、建てたばかりのマンションに変な噂がたつのを恐れていたようで、すぐに快諾してくれた。

「本当にいいんですね」

念をおしたあと、すぐに工事がはじまった。僕の部屋と女の部屋を隔てていた壁は取り払われた。僕と女の部屋はひとつに繋がった。

たたく壁がなくなれば、たたかれることもなくなる。二人ともそう考えていた。

「これで壁の音に悩ませられることもなくなるね」と、僕が言うと「これからはあなたのイビキに悩まされるかも」と、女は僕の肩にもたれかかりながら甘えた声で答えた。

それから壁の音はしなくなった。なぜコンコン、カツカツという音がしていたのか理由はわからないままだった。