一本の栗の木
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一本の栗の木
南嘉月明生
ヒンヤリと澄みきった朝の空気を、数えきれないほど芽吹いた若葉一枚一枚に行き渡らせるように、栗の木は大きく深呼吸しました。
満天の星たちが、明けていく空へ一つ、また一つと帰っていくと、まだ姿の見えない太陽は、待ってましたとばかりに、みなぎる光を束にして、山の端から空に向け、四方八方に送り出しました。少しずつ朝の光が増していくと小鳥たちもにぎやかに歌い始めます。
小鳥たちの歌声は特に素晴らしく、春の初めの頃には、まだぎこちない歌声だったウグイスが、ほれぼれする美しい歌声を響かせていたり、はるばる南の方からやってきたツバメたちが元気に歌っているのを聴いたりしては、春が来たのだなあとうれしくなります。暖かい春の日差しもポカポカと心地よく、栗の木は幸せを感じるのでした。
小さかった栗の木の若葉が、大きくたくましく成長し、もうすぐ花が咲くという頃、栗の木の立つ野原に何人もの人がやってきました。人が何人もやってくることはこれまで何度もありましたが、それは夏に栗の木に集まる虫を取りに来たり、小鳥を見に来る人や、秋に甘くて大きな栗の実を拾いに来る人たちばかりでした。
「この人たちは、いったい何をしに来たのだろう」
栗の木は不安な気持ちを落ち着かせようと大きく深呼吸をすると、草や木のにおいを感じました。辺りを見渡すと、一面に白い花を咲かせていたクローバーは引っこ抜かれ、甘い実をつけるグミの木もバッサリ切られていました。
夕方、その人たちが立ち去ったあと、野原では栗の木が、無残な姿になったクローバーやグミの木たちを心配そうに見つめていました。その様子をずっと見ていたカラスとヒヨドリが栗の木のところに飛んできてくれました。
物知りなカラスの話では、すぐ近くの古い家とそのそばにあったカラスのお気に入りの松も全てなくなってしまったのだと寂しそうに話してくれました。
食いしん坊のヒヨドリの話では、甘いサクランボのなる木も畑ごとなくなり、今は黒くて固い地面になってしまって面白くもなんともない場所になったのだと残念そうに話してくれました。
「このままだと栗の木さんまで切られてしまうのかもしれない。なんとかしなくちゃ」
そう言うカラスとヒヨドリでしたが、どうすることもできず、ただ栗の木のこれからのことを思うとかわいそうで心配で悲しくて悔しくて涙があふれてくるばかりでした。
「カラスさん、ヒヨドリさん、今は会えなくなるのかもしれないけれど、でもまたどこかで会えるのかもしれないよ。何が起こるかわからないからね」
そう笑顔で話してくれた栗の木も涙をあふれさせ、目の前にいるカラスもヒヨドリも、茜色に染まった夕暮れの風景も、かげろうのようにはかなく美しくゆらめいて見えました。
「わあー、熟れた柿みたいな夕日だねえ」
涙もいっぺんに乾かしてくれそうな南風みたいに暖かく軽く陽気な声で、そう話しかけてきたのは真っ白いタヌキでした。
カラスとヒヨドリは白いタヌキに驚きましたが、栗の木は、
「タヌキさん、お元気でしたか」
と、笑顔で話しかけていました。
「栗の木さんとタヌキさんは友達なのですか」
キョトンとした顔で、そろって聞いてきたカラスとヒヨドリに
「タヌキさんは秋になるといつも栗の実を食べに来てくれて、おいしそうに幸せそうに食べてくれるので、私もタヌキさんのその姿を見るのがうれしくてね」
そう話す栗の木は本当にうれしそうでした。
「実は私、月に住むタヌキなのです。月から眺めていた栗の木さんの栗の実が本当においしそうで、思いきって一度食べに来ましたら、すっかりとりこになってしまいました。それで毎年来ては食べさせてもらっていたのです。栗の木さん、今夜私と一緒に月に行きましょう。月のみんなも栗の木さんに来ていただけるのを楽しみに待っていますよ」
「カラスさん、ヒヨドリさん、栗の木さんのことは私におまかせください。もう心配はいりません」
そう言うとタヌキは栗の木と、いつのまにか元気な姿に戻っていたクローバーやグミの木たちと一緒にスーッと空に浮かぶと、夕暮れの空高くゆっくりと昇っていきました。
一行の姿が、一番星の見え始めた空に溶け込んで見えなくなるのを見届けると、東の空から白く輝く真ん丸い月が、山の端を明るく照らしながら、のんびりと昇ってくるのが見えました。
「タヌキさんはお月様だったのかもしれないね」
「そうかもしれないね」
白く穏やかな光の月を映し出す四つの瞳からうれし涙が次々とこぼれ落ちると、ふわりと暖かい風が吹いて、乾いた涙は空へと帰っていきました。