阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「上がり眉」ひろみ
僕の母親は、心配性だ。危ないよ、やめときなさい、あなたが困らない様に、未来の危険を予測して、預言者のように危険から回避できるように僕を守ってきた。だから、僕は失敗する事が少ない人生で、とても打たれ弱い。
もうすぐ就職活動が始まる。写真だけ完成している。打たれ弱いのに、僕の顔は眉毛が上がっているので、自信満々に見える。エントリーシートに自己PRを述べなければならず、何を書くべきか。学校生活では、「みんな同じ」が求められ、個性的という存在は本当に才能のある奴しか許されなかった。社会人になる試験では突然オリジナリティーを求められる事に戸惑っている。エントリーシートが全然埋まらず、寝転んでいたら、母親がしんみりした顔で部屋に入ってきた。
「進、あなたの本当のお母さんが亡くなった」
突然不幸な話を言われ、寝転んだまま思考回路ゼロの状態がしばらく続く。高校を卒業した時に、父親から、僕を産んだお母さんは、今のお母さんとは違うと聞かされた。反抗期が終わっていたからか、落ち着いて気持ちを整理することができていたつもりだった。僕は失敗がない人生と思っていたが、母親に捨てられた時から失敗の子供としての人生が始まっていたのだろうか。
「進、どうする?」
「どうするって?」
「お葬式」
「今さら、って言うか、記憶にない人」
「そうね、ごめんね」
「お母さんが謝る必要ある?」
「本当のお母さん、咲子さんって言うの。先方がこちらに連絡してきたって事は、あなたに伝えたい事が何かあるんじゃないかしら」
「俺、葬式なんて出た事ないけど?」
「お父さんの喪服、着て行きなさい」
人生で初めて喪服を着た。黒い服は好きでよく着るが、喪服は不幸を纏っているようで、気持ちが悪かった。中目黒の駅に着いて、教えてもらった住所を見ながら目黒川沿いを歩き、メモに書いてあるマンションを見つける。マンションに入る勇気が出ず、マンションの川向かいにあるカフェに入った。どうしようか、このままやっぱり帰ろうか。一杯700円もするカフェオレの味が全然わからない。家族は居るのだろうか。知らない人達に囲まれて何をしに来たと言われたらどうしようとか、良くないことばかりが頭の中を占領し、帰ろうと立ち上がった時、喪服を着た40代くらいのおばさんが犬の散歩をして通り過ぎた。
「あっ!」
と思わず声が漏れてしまい、おばさんがこっちを振り向いた。会釈すると
「あなた咲子の?」
「はい……。いや、何と言えば」
おばさんに連れられて、マンションの部屋に案内された。2Kの質素な内装で、綺麗に片付けている部屋。和室で寝ている人が僕を産んだ人。死んだ人を見るのも初めてで、線香の匂いに囲まれながら、それが本当のお母さんだと言われても怖かった。
「進くん、来てくれてありがとう」
僕は、頭を下げるのが精一杯だった。おばさんは、妹らしい。妹さん以外は誰も居なかった。たくさんの人に囲まれたらどうしようと思って居たので、少し安心したが、孤独死よりましだが、寂しい家族葬。もちろん、親父も来ない。いや、待てよ。親父の匂いがする喪服を着ている。お母さん、わかっていて着せたのか?ピンポーンと玄関のチャイムが鳴り、寿司屋だった。1人前の寿司が入った小さな桶が3つ。
「進くん、お腹空いてない?」
僕は、頷いたけれどもどうしても食べることが出来なかった。おばさんは、咲子姉さんが、潔癖でお寿司を食べる時とかみんなと一緒の桶だと嫌がって食べなかったとか、後先考えず、何でも一人で決めてしまう所があったとか話をしてくれた。なぜ僕を捨てて家を出たのですか?と聞きたかった。そしたら、おばさんが、通帳を出して来て、咲子姉さんが、あなたに貯めたお金と言って渡してきた。通帳を開けて残高を見たかったが、見る事なく返してしまった。もう僕は耐えられなくなり、帰りますと言ったら、最後に顔を見てあげてほしいと、顔にかけていた布をおばさんが優しくとった。初対面の顔で、目は閉じて居るのに、眉毛がグッと上がって気の強い顔。自分と似ていて、心臓がバクバク鳴った。
帰り際、玄関に飾ってあるアロマオイルのクールミントの匂いが、咲子さんと言う人がまだほんのり生きて居る様にも思え、後ろを振り返れば、立って居るような気がした。僕は振り返らず心の中で「産んでくれてありがとう。さようなら」と言った。
帰ったら、お母さんのご飯を食べて、エントリーシートを書こうと思った。