阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「気まずい帰郷」いとうりん
車窓に広がる田園風景に妙な安らぎを覚えながら、紘一は二本目の缶ビールを開けた。シラフでは帰れないほどの不義理をした、十年ぶりの帰郷だ。うんざりするほど嫌だった田舎暮らしが、何故だかやけに懐かしい。
紘一は地元の大学を出た後、実家の旅館を手伝った。いずれは自分が継ぐはずの旅館だが、正直まったく向いていなかった。客商売は性に合わないと、家を飛び出してそれっきり。客商売が嫌だったくせに、コンビニのバイトで食い繋ぎ、気づけば三十半ばだ。
実家の旅館は二歳下の弟が継ぎ、昨年リニューアルしてなかなか評判のいい旅館になっている。ホームページで笑顔を振りまく美人の若女将は、おそらく弟の嫁さんだろう。いつの間にか、自分が捨てた旅館のホームページを見ることが日課になった紘一は、今なら帰ってもいいのではないか、と思うようになった。かなり繁盛しているようだし、客の送迎くらいならやってもいいかな、などと虫のいい事を考えた。
山間の駅に着くと、思ったよりも空気が冷たく、十月なのに吐く息が白かった。この感覚は久しぶりだ。紘一は思わず身を縮めた。旅館の送迎バスを頼むわけにもいかないので、勿体ないけどタクシーに乗り込んだ。
「つばき屋旅館に行ってくれ」
「つばき屋さんね。あれ? つばき屋さん、今日休業じゃなかったかな」
「えっ? 年中無休だろ」
「確か臨時休業だよ。葬式とか言ってたな」
「葬式? 誰の?」
「さあ、詳しいことは知らないけど。どうする? 他の宿にするかい?」
「いや、つばき屋に行ってくれ」
紘一は、十倍くらい早く動く心臓を押さえながら、暑くもないのに吹き出す脂汗を拭った。いったい、誰が死んだんだ。
タクシーを降りると、すっかり酔いは醒めたのに足が震えて転びそうになった。リニューアルしても老舗旅館の趣は昔のままで、竹で出来た塀と、いい具合にカーブした松の木が紘一を迎えた。どこにも葬式の花輪などはなかったが、随分閑散とした雰囲気に身が引き締まった。門を入ると、小さな立て看板があった。葬儀を知らせる看板だ。そこには、父の名前が書いてあった。
「父さん、まさか、死んだのか」
見るとロビーの中に、礼服の人たちが集まっていた。ゆらゆら近づくと、庭で小さな女の子が花を摘んでいた。弟の娘だろうか。目元が写真で見た若女将にそっくりだ。
「君のおじいちゃんのお葬式なの?」
話しかけると女の子は、「おじちゃん、だれ?」と、つぶらな瞳で紘一を見上げた。初めて会う姪っ子がこんなに可愛い。汚れのない目に、自分はどう映っているのだろう。中に入るのが怖かった。不義理をして親の死に目にも会えず、今更どんな顔をすればいいのか。紘一は、このまま逃げ出したくなった。
「そろそろ葬儀が始まりますよ」
葬式にしてはやけに明るい声が聞こえた。きっと若女将の声だ。
「始まるって。行こう、おじちゃん」
女の子に手を引かれ、戸惑いながら中に入った。礼服に人たちが一斉に紘一を見た。
「あら、紘ちゃんじゃないの?」
「本当だ。おまえ何してたんだ、今まで」
「この親不孝者が」と罵倒する親戚たちの間を縫って、母と弟が顔を出した。
「兄さん、おかえり。知らせたわけじゃないのに、今日帰ってくるなんてすごい奇跡だ」
「紘一、やっと帰ってきてくれたのね」
母が涙ながらに紘一の手を握った。
「ごめんよ母さん。連絡もしないで、心配ばっかりかけたね。父さんのことも全然知らなくて。本当にごめんよ」
紘一は、膝をついて泣き崩れた。母がその背中を優しく擦る。親戚たちも「せいぜい親孝行しろよ」と、紘一の肩を叩いた。
「みなさん、お葬式始めますよー」
若女将の張りのある声が、しんみりした空気を一蹴した。そうだ。こんなところで泣いている場合ではない。父の祭壇に手を合わせて、親不孝を詫びよう。涙を拭いて立ち上がった紘一の前に、突然父が現れた。
「紘一、今更どの面下げて帰ってきた」
白装束姿の父の霊だ。紘一は尻もちをつきながら、必死で詫びた。
「父さん、ごめんよ。これからは心を入れ替える。下働きでも何でもして、母さんを支える。だから、どうか成仏してください」
周りから、どっと笑い声が起こった。父だけが、鬼のような顔で立っている。
「何が成仏だ。まだ死んでない」
「えっ、だって、父さんの葬式だろ」
「生前葬だ」
生前葬? 体中の力が一気に抜けて、紘一はその場に倒れこんだ。紛らわしいことするなよ。だけど、だけど、よかった。