阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「霧の向こう」吉田猫
あの人が死んだ。
あの人は私のすべてだった。あの人の歌を聴いて写真を見て、あの人の事を考えるためだけに私は生きていると思っていた。
今でもあの人は人気者だからお葬式には大勢の人が駆け付け、私は式場の一番後から葬儀が進むのをぼんやりと見ていた。
隣にいる中年の男女が小声で話しているのが聞こえる。「もう一線から引いていたとは言え、まだ若いのに」
「運転していた車のハンドルを切りそこなったんだ」と男が事故の詳細を女にささやくように説明していた。
思い返すと最近のあの人のことを私はよく知らない。私はぼんやりとした頭で考えた。あんなに大好きだったあの人の事だけを追いかけることができなくなってしまったのはいつ頃からだっただろう。
少しずつ記憶が蘇ってくる。あの頃のことを思い出すのは今でもつらい。だから今ここにいることがとても不思議な気がする。なぜ私はここにいるのだろう?
祭壇の前ではあの人とグループで一緒に歌っていた人達が、何かを読み上げている。半分泣いているみたいだった。
相変わらず私の頭の中は霧がかかっているみたいにぼんやりしていて、彼らの言葉が物凄く遠くから聞こえているように感じる。
しばらくして式場にあの人の歌声が流れ始めた。ああ、大好きだった曲だ。頭の中がぼんやりしていてもこの曲だけは空で歌える。何度一緒に歌った事だろう。運が悪くてコンサートで本当にあの人と一緒に歌うことができたのは数回しかなかったけれど、曲を聴くだけでいつも一緒にいる気がして、家にいるときは目を閉じて一緒に歌った。
でもなんで曲を聴きながらみんな泣いているのだろう?こんなに素敵な歌なのに。
そういえば私の両親もよく泣いていた。私の前では笑顔を見せようとしていたけれど、陰でいつも母が泣いているのを私はいつからか知っていた。
先生に「一緒に頑張りましょう」と言われたけれど、そんなに私は強くなかった。
「なんで私だけが」この言葉がきっと家族を泣かせたのだろう。それを思い出すと本当に胸が締め付けられるような気がする。
その頃からつらい薬もたくさん使わないといけなくなって、あの人の事だけを考える力すらだんだん無くなる自分がたまらなく嫌だった。
大勢の人が来ていたから葬儀はなかなか終らない。人々が順番に遺影に向かって何かしゃべりかけている。
その時、急に思い出した。
そうだ、私には大切な使命があったのだ。ここに来た時から頭の中に広がっていた霧が一瞬に晴れるように突然思い出した。そうだ霧だ。このために私はここに来たのだ。
私は顔を上げて前を見つめた。
式の途中だったけれど私は立ち上がると、あたりからすすり泣きが聞こえる通路を前に向かってそっと歩き始めた。誰も私に気が付いていないみたいだ。
彼は他の人と並んで祭壇の前に立って花に囲まれた遺影を見上げていた。
近づいてきた私に気付いて振り返ったのは彼だけだった。少し老けたけれど懐かしい顔だ。不思議そうな表情で私を見つめている。喜びが込み上げてくる。私を見つめてくれているのだから。夢に見た瞬間だ。
彼が私に声を掛けてきた。
「あの、何というかこれはどうなっているのかな?」
二人きりで話ができるなんて「もう死んでもいい」と思ったら、それが急におかしくなって笑ってしまった。
「何かおかしい?なぜ笑っているの?」
彼が不思議そうに言う。私は笑いをこらえて何かしゃべろうと思ったけれどうまく声が出ない。だって大好きだったあの人が目の前にいて私に話し掛けてきたのだから。
うまくしゃべれない私に彼が聞く。
「これは、やっぱりそういうことなのかな?君だけみたいだな、僕が見えるのは」
私は少し落ちついてきたので彼に向かってやっと声を出すことができた。
「あなたのお迎えに私が選ばれてこちらに戻って来たの。後ろであなたを待っていました」
「そうか……」
彼は少し唇をかみしめてうつ向いた。
二人でいることが私は心の底からうれしくてもっとはしゃぎたかったけれど、まだ理解しきれていない彼がとても可哀そうに見えて、それ以上私は何も言わなかった。
その代わりに彼の右手を両手でそっと包んで彼が顔を上げるのを待ってあげた。
やがて霧が近付いてきた。