阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「つき」藤村綾
とにかく日当たりがよくて大きな窓のある部屋を。不動産屋の営業の水野さんに半年前から伝えてあった。あったけれど、今まで四件ほど水野さん推しの物件を観覧しに出向いたけれど、納得のいくような物件には出会えず未だにまだ日当たりがおそろしく悪く小さな窓しかないワンルームに住んでいる。
「本当にすみません。なにせ都内で駅近でとなるとなかなかなくって。その大きな窓ってのが」
すっかり仲良くなってしまった水野さんと今、新橋の居酒屋にいる。今夜の水野さんは紺色のスーツに先の尖った革靴を履き、銀縁メガネがとっても似合っている。最初は全く顔など見てなかったし、ただの営業マンくらいの立ち位置だったのに、こうやって飲みに行くようになってから不思議と水野さんの顔形。体躯や身につけているもの。たとえば匂い。そんないちいちにおどろいたり、ドキドキしたりするようになっていた。なので気に入ったアパートが見つかって欲しいような欲しくないような、けれどどちらかといえばもう見つからないでもいいかも、だなんて思ったりもしていた。もしあたしの思い描いている部屋が見つかったらもう水野さんに会う理由がなくなってしまう。新橋はどこもサラリーマンでごった返している。楽しそうな笑い声がそこら中に響いている。
「……、ですよぅ。で、え? あれ? 牧野さん、聞いてますぅ?」
えっ? 他の人達の喧騒に意識が飛んでいて半分は聞いてなかった。
「あ、ええ、聞いているわ」微笑んで目の前のレモンサワーを一口飲んだ。ほとんど薄まっているレモンサワー。
「どうして、大きな窓にこだわっているのか」でしょ? あたしはでしょ? のあたりで水野さんの顔を覗き込む。ええ、それもそうですけど。お酒に弱いといっていただけあってコップ一杯のビールでさえ顔を赤くする。
「あたしね、窓のない部屋で育ったんだ」
あ、別に監禁とかじゃないからね、と、慌てて付け足す。わ、そんなこと思わないですって、と、水野さんはクスクスと笑った。で? 水野さんが話の先を促す。あたしは、すみません、と、店員に声をかけ、再度レモンサワーの濃いめを注文し、口を開く。
「借家だったの。で、母子家庭だったんだけれど、平屋で部屋が3つあって、角の部屋がお兄ちゃんで真ん中の四畳半があたしの部屋だったの。真ん中だからね、窓がなかったんだ。なんていうのかなぁ。昼間でもね、灯りをつけないと真っ暗なんだ」
ふんふん。水野さんは肘をつき顔を支える形で聞いている。東京に出てきてからもね、なぜか窓が小さいとかないとか日当たりが悪いとかそんな部屋ばっかりなんだよね、と、ため息を落としながら続ける。そういう運命なのかもと重ねて付け足す。あ、なんかごめんなさい。こんな話になってしまって。ついお酒のせいで気が緩んだのかつい暗い話になったことを詫びる。いやいや。そんなこと気にしないでください。水野さんは首を横に振った。柑橘系の香水の匂いが鼻梁をくすぐる。禁煙席がある居酒屋はありがたい。
「今月中には絶対に見つけますね。期待してくださいね」ベーコンのポテト焼きをつつきながら水野さんは果敢にいいはった。はーい、期待しておりまーすぅ。語尾は右上がりにまるで喜んでいるようにお店の喧騒の中に溶け込んでゆく。今月中にかぁ。こんな話しないでおけばよかった。いってしまったことにほとんど後悔をしていた。幼少期の暗い過去を聞いていい気分になる人などいないのだし。
「あの、レモンサワー濃いめもう一杯」
もしかして今夜が最後の飲みだという気がしてグテングテンに飲んでやろうと決めて、もうよしたほうがいいですって、そんな弱音な声など耳に届いてないですよー的にほんとうにグテングテンの新橋の親父みたいに酔ってしまった。
「もうこんなに酔って」らいじょうぶぅ、と、呂律の回らない口調で平然を装ってみるが足がたこのようくねくねとしてうまく歩けない。水野君が呆れた顔をしているのがわかる。けれどギョッとすることを口にした。僕のうちここから歩いて5分です。と。
「っえー!」
水野君の部屋はマンションの五階だった。けれどその眺めに驚きその窓の大きさに目をうばわれた。大きな窓はカーテンを引いてないのでおもての東京の景色が宝石箱のよう煌びやかに光を放っている。すごい……。感嘆の声がもれてもれて容赦がなかった。窓にうつるあたしはなんてだらしのない赤ら顔なのだろう。その裏に水野さんがシュッとしてうつっている。一歩一歩と近づいてきてあたしはせつな呼吸をするのを忘れてしまう。今夜の月は欠けている。