阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「食卓の葡萄」七積ナツミ
食卓にある大きなダンボール箱の中に、獲れたて葡萄が敷き詰められている。愛沙はその中から一番大きい房を取り出し、ボールに溜めた水の中に潜らせた。ぽろぽろと房からはずれた葡萄も全部掬ってガラスの大皿に乗せる。葡萄の皮の上に弾けた水の玉が走る。
「おじいちゃーん!」
「お、なんだ。おおぉ、立派な葡萄だなぁ」
「西の家の聡子さんが持ってきてくれたよ。初物だって」
「なんだ、巨峰か? 粒がおっきいなぁ」
「うん、巨峰だって。美味しいよ」
「はっはぁ~。実が大きくて食べげぇがあるねぇ。これはうまいうまい」
「ねぇおじいちゃん、果物で何が一番好き?」
「そりゃあ、葡萄だね、こんなにうまいもんはないね。んー、あとは桃もうまいね。いや、葡萄には敵わねぇな。うめぇなぁ……」
西隣りの家は葡萄農家で、毎年、初物が獲れると近所に配って回る。
「西の家にはまた何か持って行かないとな……。そういや、愛沙。次の土曜日に新宅に持っていく羊羹買ってきたか?」
「だからそれは、土曜の朝に恵子さんが持って来るって、言ったじゃん」
「そうだったかなぁ? 初めて聞くなぁ」
「え、何度も言ってるよぉ。じゃあ、証拠に、カレンダーに書いておくからね! ようかんはどようの朝に、けいこさんが、持ってくる!」
「初めて聞くけどなぁ。……葡萄うめぇなぁ。これ、川で冷やして食うともっとうまいぞ」
「今、川なんかに入れたら汚いよー」
「汚いことなんかあるか」
「家庭や工場の排水で今の川は汚いんだよ。冷蔵庫で冷やせばいいじゃん、普通に」
「ちっ。あ~あ。葡萄はうまくていいねぇ」
葡萄が入ったダンボール箱の中でカサコソと音がする。葡萄の枝に潜んでいた小さな虫が一緒に運ばれてきたのだ。窓の外では空が急に暗くなり、俄かに雨が降りそうな気配。窓から窓に吹き抜ける風が少し、冷たく強くなった。
「おぉ、こりゃあ、降るな。さっきまでカンカンのお天気さんだったのになぁ」
「涼しくなるね。おじいちゃん、洗濯物取り込まなくていいの?」
「今日は雨予報だったから洗濯しなかったんだ。ずーと晴れてたから損したと思ったけど、今頃来たな。ところで愛沙、お前は一体いつ洗濯してんだ。ついぞ、見ねぇな……」
「え、あぁ。……いやぁー、やっぱり葡萄は美味しいね!たまんないよねぇ!ははは……」
「ったくよ」
「あ、来た!」
「お、来たな!」
「なんかすごい、土砂降り!突然!」
「こいつぁひでぇな、おい、愛沙!自分の部屋の雨戸閉めてこい!」
二人はバタバタと家中の雨戸を閉めて回る。食卓には葡萄が取り残された。一匹の虫が箱から出て来て机の上を這う。虫は大皿まで辿り着くと葡萄の実をよじ登り始める。その瞬間、大粒の水滴がサッと流れ、水と共に虫は皿の中心に溢(こぼ)れていった。
「ひゃー、えらい目にあったな。お前の部屋大丈夫か」
「うん、何とか。おじいちゃんの方は?」
「ちょっと吹き込んだけどな、大事は免れたな。ひゃー、やれやれ。お、葡萄だな。これ、どうした?」
「西の家の聡子さんが持ってきてくれたんだよ。さっき一緒に食べてたじゃん」
「そうかなぁ、おれぁ、初めて食べるねぇ」
「あんなに葡萄の話してたじゃん」
「いやぁ、うまいねぇ」
「……おじいちゃん、果物の中で何が好き?」
「そりゃ、おめぇ……」
「葡萄だよね、桃も同じくらい好きだよね、でもやっぱり葡萄が一番好きだよね」
「そうさぁ。ようく、分かってるねえ!」
「はぁ…。葡萄美味しいね、おじいちゃん」
「うめぇなぁ、これは、あれか、巨峰かな」
「……巨峰だよ」
「巨峰かぁ、粒が大きくて食べげぇあるな」
豊治が取った一粒に小さな虫が付いていて、豊治は口をすぼめて、ふっふ、と虫を払う。虫は真っ逆さまに床まで落ちて行った。
「ねぇ、おじいちゃん」
「どうした」
「昨日の朝ごめんね」
「何が?」
「突然ヒステリー起こして、怒鳴りつけて」
「そんなことあったけかな」
「自分でもダメだなって思ってるんだけど」
「愛沙が言うことなんて、すぐにみーんな忘れちゃうさぁ。……葡萄、うめぇなぁ。これは、絶対に忘れない」
「さっき、忘れてたよ」
「いや、絶対に、忘れ、ない!」