阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「サイテー」千野風樹
「おいしそうな葡萄だね」
男はそれをつまみながら平凡な小説から拾ってきたような月並みな言葉を使った。そんなことをいう人が世の中に本当にいるとは信じられなかった。
ことはそれから始まり、手が使われ、口と舌が使われ、下半身が使われた。
男が上で動いている間、わたしは天井からつり下がっている、いやに光を反射する色ガラスの嵌まったシャンデリアを見つめていた。黄色の光は金平糖のツノのように、白い天井で放射線状に伸びていた。男が小さな声を漏らして、わたしはそれが終わったのを知った。身体を離すと天井を向いて、「ふう」と男はため息を一つ漏らした。
彼は身体中に汗をかき、その汗がわたしの胸にも腹にも粘り着いていた。
「どうだった。よかった?」
隣で男は天井を向いたままそう訊いた。吹き出しそうになりながら、うんうんとわたしは頷いた。
男とこんな形で会うのは二回目だった。彼はスーパーの店長をしていて、わたしはその店でアルバイトをしていた。最初に声をかけてきたのは彼の方だった。
「毎日何食べてるの?」と店長はわたしに訊いてきた。
「スーパーの弁当です」
わたしが毎日そこの店の弁当を買って帰るのを知っているのに、変なことを聞く人だと思った。
「今度、何かうまいもの食べに行かないか」
「うまいものって何ですか」
「イタリアンとか、フレンチとか」
「お金、ないですもん」
「金のことは心配いらないよ」
それでわたしは、ああ、あれなのかなと思った。
「いいですよ。店長がしたいことをすればいいです」
「したいことって、何か変なこと考えてない? 君がいやだったら別にいいんだよ。何も無理してまでとはいわない」
「いえ、おいしいもの、食べに行きたいです」
それから一週間ほどして、本当に店長はわたしを食事に誘ってきた。その日食べたのはイタリアンで、食事を終えた後そのままこのホテルにやってきた。今日もまた同じホテルだった。
テーブルの上には二つの冷めたコーヒーと、部屋番号を書いた透明で細長いプラスチックのキーホルダーが載っている。
テレビを点けると十時からのニュースが始まっていて、とても深刻なニュースをやっていた。
「こんどさあ、一泊でどこかへ旅行しないか?」
半身を起こしたわたしの後ろで、横になったままの彼がそう訊いた。
「そうですね」
わたしは気のない返事をして冷めたコーヒーに口をつけた。
「じゃあ、どこへ行こう」
「どこでもいいですよ。店長の好きなところで」
「店長はやめてくれないかな。祐二でいいよ。もちろん外で会うときに限ってだけれどね」
わたしは横を向いて、枕元のデジタル時計に目をやった。
「時間、いいんですか」
そういうと、彼は改めて時計を見て慌てて風呂場へ駆けていった。彼には家で待っている人がいるのだった。
シャワーの音を聞きながら煙草に火を点け、足を組んで煙を長々と天井に向かって吐き出した。煙は静かに天井の白い換気扇の中に吸い込まれていった。テレビのニュース番組がスポーツに変わっていた。
「きみも早くシャワー浴びてくれよ。五分で頼むよ」
浴室から出てきた男がそういってわたしを急かした。シャワーを済ませ浴室から出てくると、男はもう手にブレザーを持っていた。それからホテルを出るまでに二十分かかった。わたしとしては割と早いほうだと思う。車は不機嫌そうにスピードを出して時々赤に変わった信号を突っ切った。
何回かそんなことが続いたあと男は突然「こういうことはもうやめよう」といった。
また毎日スーパーの弁当か、そう思ったわたしは「いやです」と答えた。男は、そんなにきっぱりと断られるとは思っていなかったらしい。少し考えてから最後通告を突きつけるようにこういった。
「きみの乳頭ね。干し葡萄みたいに黒ずんでいるだろ。そういうのって俺……」