阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ホール占い」サエ
土曜の夕方、街を歩いていると、路上に「ホール占い」と赤字で書かれた白い看板を見つけた。
「ホール占い」って何かしら?
夫は仕事仲間とゴルフに出かけ、帰りは明日の夜だ。どうせ帰っても一人で夕食を摂るだけ。暇だからちょっと覗いてみよう。私はビルの一階にある占いの店に入った。
入口を入ると、占いをする部屋の前に布のソファがあった。端正な顔立ちの三十歳位の青年と、グレーのスーツを着た中年の女性がソファに並んで腰掛け、順番を待っていた。私は青年の隣に座った。
ソファの横の壁に占いの説明が貼ってあった。壁に空いている穴に右手を入れ、触れた物で三か月後の運命を占うらしい。
なんだか胡散臭いな。穴に仕掛けがあるんじゃないの?
占いの部屋から呼ばれ、隣の青年が部屋に入った。しばらくすると、青年は満面に笑みを湛えて出てきた。
「どうでした?」と尋ねると、
「穴に手を入れたら芝居の台本がありました。三か月後の今日、僕は主役に抜擢されるんだ」青年は喜びを隠しきれない様子で帰って行った。
次に中年女性が呼ばれ、部屋に入ったが、数分後、ハンカチで顔を抑え、泣きながら出てきた。
どうしたのかしら? 何か悪いことでも言われたのかしら? 私は怖くなった。三か月後の運命なんて知らないほうがいいかも知れない。ソファから腰を上げかけると、
「次の方どうぞ」
占い師に呼ばれ、帰るタイミングを失した私は部屋に入った。
六畳くらいの部屋の中央に机があり、黒い服を着て紫色の髪をした女占い師が一人座っていた。占い師の傍らの壁には、直径三十センチ位の円い穴が空いていて、穴の前に椅子があった。
「椅子に座って壁の穴に右手を入れてください」
促されるまま、椅子に座った。壁の穴の中は真っ暗だった。恐る恐る右手を入れると、角の丸い板のような物に触れた。先を探ると、冷たい金属の板のような物、角がざらざらしている。
「何かありましたか?」占い師に問われた。
「刃物のようなものが」
「そうですか。三か月後の今日、あなたは事件に巻き込まれるかも知れませんよ。気をつけてください」そう告げられた。
あんな占いするんじゃなかったわ。きっと、待合室にカメラが仕掛けてあって、客を見て穴に物をセットしているのよ。若い男の客は喜ばせて、女の客は痛い目に遭わせる。あの占い師、独身なんだわ。自分より若い女が来ると、嫉妬して嫌がらせをするのよ。高い料金払って損したわ。あんな嫌なこと、もう忘れよう。
だが、冷たい刃物のような物の感触と共に、占いのことは頭にこびりついた。
三か月後のその日は、朝から落ち着かなかった。占いのことは夫に話したが、「バカバカしい、騙されたんだよ」と一笑されただけだった。
夫が出勤すると、一人になった。私は四十過ぎて結婚し、一度妊娠したが流産をして子供はできなかった。
商社に勤めている夫は仕事が忙しく、ゆっくり話すこともないが、夫が定年退職をすれば、一緒に旅行したり、二人だけの時間が持てるだろう。
週末の夜は夫の帰りが遅い。きょう一日、やり過ごさなくては。
開け放したベランダの窓の向こうから、誰かに見られている気がして、窓を閉めた。
午前中は洗濯と掃除をした。昼食を摂り、午後は裁縫をした。
午後六時、夕食を済ませた。あと六時間、無事に過ぎれば。
八時になったが、夫はまだ帰らない。どこかで一杯やってるんだろう。早く帰ってくればいいのに。
十時過ぎ、ようやく夫が帰宅した。
もう大丈夫。なんだ、やっぱり何もなかったじゃない。
帰宅した夫は着替えもせず、食卓に着いている私の向かいの席に座った。
夫は暗い顔をしている。不景気のせいで、夫は会社から早期退職を迫られている。きっとそのせいだろう。
「話があるんだ」夫は私の顔を見て、低い声で切り出した。
「離婚してくれないか、恵美に子供ができたんだ」
突然、頭から冷水を浴びせられたようだった。
「恵美って、あなたの部下の?」
林恵美、東北出身で、色白で妖艶な体つきをした二十代後半の女。「部長さんにはお世話になっています」職場にいる夫を訪ねた時、自己紹介されたことがあった。
「いつからなの?」
「去年から。俺は退職して、恵美の実家の農園を手伝う。これに判を押してくれないか。俺はこれから恵美の実家に行く」
食卓に離婚届が置かれている。私は目の前がくらくらし、食卓の椅子に座ったまま動けなかった。
夫は自室に入り、旅支度をしているようだ。
ずっと浮気をしていたのね。週末に泊りがけで出かけたり、帰りが遅かったのは、あの女と会っていたのね。
夫とあの女がベッドを共にしている情景が浮かんだ。
私が産めなかった夫の子をあの女が産む。子供は産めなかったけど、この十年あなたに尽くしてきたわ。今さら離婚するなんて。ひどい。私はどうなるの? 私を不幸にして、二人で幸せになんかなれないわよ。そんなこと許さない。
涙で潤んだ視界に、調理台の上の、光る包丁の刃先が飛び込んだ。