阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「獣道」菅保夫
寒い、凍ってしまうのではないかと思うほど体が冷えきっている。冬の冷たい雨が体に刺さってくるかのように痛い、それは私がひどく痩せ細っているせいか。辺りは気温が下がり、私の吐く息もハッキリと白く見え、すぐにかき消えていく。まるで魂が少しずつ抜けていくかのように体力が失われていく。
私は走る、可能な限り速く走っている。そうしていれば少しは体が暖まるからだ。弱りきった体ではさほど速度は出ない、けれど立ち止まれば死が早まる気がする。止まるなら雨や風が当たらず、少しでも温かいところじゃなきゃだめだ。
腹が減っている、喉も渇いている。たまらず雨のしずくを飲みこむ、しかしすぐ後悔した。当然ながら冷たい、太い針を飲んでしまったかのような痛みと冷たさが私を襲う。その刺激は強烈で、体の内側から氷結が広がっていくかのようなのだ。
日が暮れてきたらしく、うす暗くなってきた。雨は降り注ぎ、いまだ雨宿りできる場所は見つからない。空腹も満たされない。夜目が効くのはありがたいが、私の命は朝まで持たないかも知れない。何しろ私はまだ小さな子猫だからだ。それに昨日かその前の日だったか母と兄弟を亡くしたばかりである。
私は生まれつき体が小さかった。さらに他の兄弟とくらべ発育が悪く、なかなか大きくなれなかったのである。早くして死ぬ運命なのかも知れなかったが、母親は見捨てず気をくばって育てるのだった。兄弟も私をぞんざいに扱うことはなく、母親と同じく世話を焼いてくれていた。
私は体が地位さんこともあり歩みが遅かった。みんなで歩いていても、いつの間にか私だけ遅れてしまう。その日は強い雨が降っていた、母の呼ぶ声も聞きとれないほど。度々遅れる私を母たちは立ち止まって待ってくれていた。見通しの悪い山道で、もうすぐ追いつくと思ったそのとき母たちは私の視界から急に消えたのである。
突然現れた車が母と兄弟をハネて、そのまま走り去った。その瞬間、私はこの姿で生まれる前に人間であったことを思い出した。脳の中で何か異質な液体が急に染み広がるような妙な感じだった。そしてそのときの自分が、今の母たちのように車にハネ殺されたことも記憶がよみがえったのである。
私は長い時間をかけて母と兄弟の亡骸を一ヶ所に集め土に埋めた。普通の猫であればこんなことはしないだろうが、前世が人であったことを思い出した今、そうせずにはいられない。墓としたその土墳の前で別れを告げた。涙は出なかったが、家族が亡くなったことは身が引き裂かれるほど辛かった。その場所に、居続けたかったが、そうもいかない。生き抜くには行動しなくては。
もうどれくらい走り続けているのだろう、距離も時間も不確かでわからなくなっている。前世が人間であったことを思い出したとはいっても、名前やどんな人生を送ったなどはわからない。ただ、死の瞬間と、人としての常識的な知識があるだけだ。自分の死の場面など無意味だと思うが、知識はかなり役に立つだろう。
猫の姿で生まれたことは何かの罰だろうか。否、人間に生まれたところで不幸な人生を送る者も多い。神様の気まぐれか、もしや自分で望んだのだろうか。どちらにしろ今がこうなのだから、これが運命だと受け入れなければしょうがない。
ぬれた体は乾いた。人間の手がタオルを使って私の体をすっかりふきあげてくれたのだ。空き家だと思って雨宿りに入ったそこには、よく肥えた老婆がいたのである。これは猫の勘だったのか一目でこの人が自分に害を与える存在ではないことがわかり、私はされるがまま身をまかせた。
それから老婆は竹輪を細かくして食べさせてくれたのだが、私は間もなくすべて吐き出してしまった。怒られるかと思ったが、そうはされなかった。私はまだ自分が地乳飲み子だということを忘れていた、これは固い物を消化できる胃袋はまだない。
老婆が思い出したように口を開いた「そう言えば、隣の家の猫がちょっと前に子猫をみんな車にひかれて亡くしたなー。まだ乳が出るんじゃなかろうか」それを聞いて私が飛び出していた。これは運命だ、こうなるようにできていたに違いない。私がすぐにその乳がふくれた白いメス猫を見つけ、乳首に吸いついた。そのメス猫は何の抵抗もせず、乳を吸う私の頭を優しくなめてくれたのだった。