阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ある老婆の独り言」ゆきみひろ
わしはな、近ごろ 新しいことに全く興味がなくなってしもうて。
そりゃあ、人生 八十年も生きていたら、楽しいこと、つまらんこと、悲しいこと、腹がたつこと、いろいろあったわ。
それやから、もうこれ以上、気持ちが揺らぐのはやめにしたいんじゃ。と言っても、生きてたら 多少の刺激はあるもんじゃな。それは逃れられん。ま、ボケてない証拠や思うて、諦め半分、受け入れとる。
そんな婆の独り言や、暇やったら、聞いとくれ。
わしはな、林檎が好きなんじゃ。秋から冬に美味しいリンゴを毎日一個ずつ食べる。これは、昔からの習慣でな。健康に良いとか、そんな理由やない。
単に、好きなもんは浮気をせんのや。林檎は好きなもんやし、飽きんのや。
旬やない時期でも、店には売ってるさかい、やっぱり一日一個の林檎は欠かさんなあ。そやけど、値段が高い割には、当たり外れがあるわ。
ま、新鮮さに欠ける時期や。妥協やな。不味くても、林檎は林檎。愛しいさかい食べるんや。
わしにとっての相棒、命の糧や。ちょっと大袈裟かいな。
その点、冬の林檎は、ええ。とくにフジが好きやな。蜜の入った林檎に当たったときは、ほんまに嬉しいわ。ま、これも当たり外れがあるけどな。
蜜入りや、思うて買って、食べて見たら蜜がないんや。まるで、ハズレくじを買った見たいで、気が抜けるわ。ちょっと、腹も立つ。
蜜入り林檎やないやろ、と思うて買ったけど食べたら蜜が入ってた。なんて時は、大当たりや。ウキウキするで。
些細な事やけど、わしにとってのちょっとした楽しみの瞬間やな。
思えば、人生も蜜入り林檎と同じやったな。
わしは、二五で結婚したんじゃが、夫としてはハズレを引いたな。
若気の至りや。見た目だけで判断してしもうた。外面の良い男で、わしの親かて何も反対せんかった。
やけど、悪い男やった。浮気もんでな。何度も嘘をつかれ、騙された。家に帰って来たと思ったら、女の残り香がいつも漂っていたんや。わしは、悲しゅうて、毎日ポロポロ泣いとった。
もう、これ以上我慢できん。離婚や、と思って決心したとき、呆気なく死んでしまいよった。わしが三十の時や。
愛人に刺されよったんや。なんでやろな。どうせ、口ばっかりええこと言うて、繋ぎ止めとったんやろ。
それから、五十年たった。
男運は、悪かったけどな。
一人で生きていくぶんには申し分なかった。
金運、言うんかな。
死んだ夫は、とりあえずの生活に困らん金を遺しておきよった。その金を元手に、好きな事だけしよったら、いつか一文無しになるやろう。でも、その時は、そん時やと思ってたんや。
わしは、まだ三十やったしな。だが、それから好きな事は、仕事になり、生活を維持できる稼ぎになり、トントンと人生上向きや。
会社を経営するまでになったんや。
今は、もう隠居の身分となったわ。
季節もんの林檎と一緒や。
何がハズレで当たりか、先はわからんもんやな。
長話になってしもうた。最後まで聞いてくれてありがとな。あんたも、なんか好きなもんあるか。ええことがあるかも知れんよ。
さっ。今日の林檎はどうやろな。
ほな、さいなら。