阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「星空に聞こえる」湯谷大志
死のうと思っていた。
高知県にある足摺岬を目指し、電車に乗った。財布の中には片道分の小銭しかなかった。俺には致命的に金がなかった。それもそのはず、高校を卒業してから昨日まで、一度も働いたことがなかったからだ。
どうやって生計を立てていたかと言えば、道ばたで声をかけた女に養ってもらっていた。俺は幸運にも容姿に恵まれ、若い頃に女に不自由したことなど一度もなかった。今までいろんな一人暮らしの女の家を転々としてきた。キャバ嬢だったり、OLや女子大生、人妻と不倫していたことだってある。みんなが俺に惚れ、喜んで食事を作り、高価なプレゼントを渡してきた。俺は容姿の他にも、卓越したトーク力を身につけていた。俺が口を開けば女は立ち止まり、熱心に話を聞いた。この二つさえあれば、世渡りなど容易いと俺は信じて疑わなかった。
しかし先月、事件は起こった。一緒に暮らしていた女が突然癇癪を起こし、俺を部屋から追い出したのである。その癇癪の発端と言うのは、俺が女のタンスにしまってある財布から、いくらか拝借したことだった。それに気付いた女は、近くにあった灰皿で俺の後頭部をいきなり殴ってきた。今まで、そんな暴力を振るってきた女など一人もいなかった。仮にお金をくすねてたのがバレたとしても、「ちゃんと後で返してよ」と笑って注意を促されるだけであった(もちろんちゃんと返したことは一度もない)。
灰皿で殴った後、女は怒りで半狂乱になった。そして俺の荷物を勝手にまとめて部屋の外に放り投げた。女の行動に躊躇いのようなものは一切なかった。荷物と一緒に閉め出された俺は何度もインターフォンを押して「許してくれ。俺にはお前しかいないんだ」と呼びかけた。しかし、女の部屋のドアが開くことは決してなかったのだった。
宿無しになった俺はその後、新宿に出てナンパに明け暮れた。俺はヤドカリだ。新しい宿主を見つけなければ死んでしまう。若い女性に限らず、中年や初老など、片っ端から声をかけた。もはや養ってくれさえすれば誰でも良かった。しかし、誰もが俺の顔を一瞥すると素通りしていった。なぜだおかしい。全盛期の俺なら百発百中だったのに。
しばらく失敗を繰り返すうちに俺は気付いた。俺の全盛期はとうの昔に終わっている。もう、来年で年は四十になる。今まで、ナンパだけで飯が食えてたのが奇跡だったのだ。
現実に直面した俺は山手線が通るガード下でおいおい泣いた。自分があまりにも情けなかった。誰かを頼ることでしか生きていけない非力な人間だ。そんな俺をホームレスたちは感情のない目で見つめた。肌が凍てつくような、寒い夜の日のことだった。
しばらく新宿に居座っていた俺だったが、地元である高知に帰郷しようと考えた。金も尽きかけ、東京でやり残したこともなかった。両親は既に病気で亡くなっていた。頼るあてを探しにいくのではなかった。小さい頃両親に連れられて見た足摺岬。あそこで投身自殺をしようと思ったのだ。どうせ死ぬなら、東京ではなく故郷で死にたかった。
鈍行列車を乗り継ぎ、二日かけ、目的地に到着した。バスを降りる頃には、すっかり夜になっていた。俺の他にもう一人足摺岬で降車した中年の男がいた。こいつもこれから自殺するのかとふと思ったが、特に気にも留めなかった。
俺は崖に向かって歩きながら、今までの人生を振り返ってみた。すると、関係を持った女達の顔が走馬燈のように頭を駆けめぐってきた。俺の人生は端から見たらつまらないものかもしれないが、当時女たちと築いた関係だけは、濃密で恵まれたものだった。そこに、未練や後悔は微塵も混じっていなかった。
俺は文字通り崖っぷちに立った。下を見下ろすと黒い波が岩に激突し、白い水しぶきをあげていた。後ろから吹く強い風に体が煽られそうになった。しかし不思議と怖いという感情は全くなかった。とても心穏やかだった。
俺はすっくと立ち上がった。そして崖の向こうへ一歩踏み出そうとした。その時、俺の視界はあるもので覆い尽くされた。それは、余りにも綺麗な冬の満天の星空だった。東京の夜空はこんなに美しくなかった。俺は思わず息をのんだ。踏み出そうとした足はそのまま動かなくなった。
「女なんてえのは、星の数ほどおるけん」
誰かの声がして後ろを振り返った。しかしそこには誰もいなかった。父の声だったような気もするが、俺には分からない。ふっと口元が歪んで俺は笑いが止まらなくなった。なんだか、今まで自殺しようとしていたのがバカバカしくなった。軽々しく死ぬんじゃねえというお告げのようにも思えた。
俺は崖っぷちに踵を返した。高知の地で新しい宿を探そうと心は既に躍起になっていた。