阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「悩める女性が新しい一歩を踏み出す物語」梶原秀之
ドライブウェイの途中にある展望台でバスを降りた。
濃い潮の香りがした。
広い駐車場を横断し崖縁まで歩いていくと、眼下に遠く水平線が見えてきた。
私は三十七歳。キャリアウーマンとして頑張ってきたけど最近、何をするにもやる気が起きなかった。そして完璧主義の私は後輩たちから煙たがられてもいた。さらに、ずるずると付き合っている年下の彼との関係も私の心に漂う暗雲だった。
私はモヤモヤを振り払うべく一人旅に出たのだ。自分の人生を見直す、あるいは新しい一歩を踏み出すためのきっかけを求めてきたのだ。
水平線はそのきっかけを与えてはくれなかった。
道路わきの交通標識はどうだろうか?最高時速40Km、Uターン禁止。何も心に引っ掛かるものは無かった。
少し離れたところに、観光客らしい老夫婦がいた。
長年、苦楽を共にしたであろう二人は付かず離れず微妙な距離をあけて散策していた。
それだけだ。私の仕事に対するスタンスや、三十七歳独身に対する折り合いかたや、彼との付き合い方に何の啓示ももたらさなかった。
道端に咲く名も無い花も、空の白い雲も、転がっている空き缶も何も与えてはくれなかった。
今の私に必要なのは、後で自分の人生の転機を他人に語る際に、ドラマチックでオシャレな彩りを与えてくれるモノや出来事なのだ。
突然、声を掛けられた。
「一人旅ですか?」
すぐ真後ろに男性が立っていた。六十歳ぐらいだろうか。気古したジャンパーはあちこちに染みがあり何十年もクリーニングしていないようだった。足元のスニーカーも汚れて泥があちこちに跳ねていた。
手ぶらで連れもいないようだから地元の人間だろうと思った。
「ここは、よく女性が一人で来られるのですよ。私も暇さえあればここに来ます。心が洗われるいい景色ですよね」
「ええ、私も一人になりたくて来たのです。誰とも会話せずに静かな時間を求めてきました」
人懐っこい笑顔を浮かべている老人だったが、容赦なく会話を打ち切った。
危ないところだった。うっかり薄汚れた老人に諭されたりしようものなら、私の回顧録が台無しになってしまう。
逃げるように、柵の手前に設置されているコイン式の双眼鏡へ向かった。コインを入れて双眼鏡を覗き込んだ。
海以外は何も見えなかった。太陽の光を反射し、きらめいている海だけだった。
ふと視界を白い小片が横切った。いくつも、ハラ、ハラ、ハラと風に吹かれて海に向かって飛んでいた。最初は花びらかと思ったが、遥かに小さく白かった。粉雪のようだった。
双眼鏡から目を外し空を仰いだが雲一つない快晴だった。
私はこの気象現象を知っていた。
風花。晴れているのに雪が降る現象だ。不思議な現象だ。原因が無いのに結果が起きる。だがタネが分かれば不思議でもなんでもない。遠くの積雪が風に舞い上げられ運ばれてくるだけなのだ。
その時、私にはひらめくものがあった。これだ、風花だ。
『そうなの。そこで見た風花が私を迷いから解き放ってくれたの』
『風花?風花ってなに?』
バーで友達の女子に、風花を説明し、そして自分がどのように自己肯定し前に進むようになったかを話し聞かせているイメージが浮かんだ。
ここまで足を伸ばした甲斐があった。いいきっかけが手に入った。後は適当にこじつければいい。空を舞う雪片に自由を感じたとか、過去とか原因とかを思い煩って悩む馬鹿馬鹿しさを悟ったとか言えばよいのだ。
私は身が軽くなった気がした。何か本当に悩みが消えたようだった。会社の後輩や彼氏にも自然体で何の気負いも無く接することが出来そうだった。
ガシャッという音がして双眼鏡のシャッターがおりた。
私は我に返り、風花のやって来る方向に顔をめぐらせた。
すぐ横で、先ほどの老人が頭を掻いていた。白髪交じりのモジャモジャ頭から何か飛び散っているような気がした。
私は咄嗟に視線を背け、今見たものを頭から追い出した。
調度よく帰りのバスがやってきた。
私は駆けだした。
バスと自分の新しい日々に向かって。