阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作 「満月」中村光男
あれは夢だったのだろうか。沙羅を思い出す度に感じた胸の焼けつくような痛みを、最近は思い出すことさえ難しい。沙羅と過ごした時間が現実のものだったのか、私は時々疑わしい気分になる。以前は、沙羅の夫の名前が書かれた年賀状を見るだけで不快になったものだったのだが。
最後に彼女に会った時も、今夜のような満月だった。そのおかげで、私は満月を見る度に沙羅のことを思い出すことになった。夢ではないのだ。
私も沙羅も、お互いに家庭を持っていた。私には妻と娘がおり、沙羅には夫がいた。最初からそんなことは覚悟をしていたつもりだったし、始めのうちは彼女の夫の鈍感さを笑う余裕があった。しかし、私が沙羅にのめり込むようになるにつれて、沙羅が夫と過ごしている時間、私は煩悶して過ごすようになった。沙羅と他の誰よりも深く魂で繋がっていたい、時間を戻して、沙羅の過去を、彼女の生きてきた人生を全て知りたい、とさえ思った。
今思えば、そんな私の気持ちがすれ違いを生んでいったのだろう。徐々に二人で過ごす僅かな時間も少なくなっていった。しかし、手に入らないものほど情熱を掻き立て、手に入ると醒めてしまうものである。沙羅の心が離れていけばいくほど、私の沙羅を想う気持ちは募っていくばかりだった。
沙羅と最後に会話らしい会話を交わしたのは、何か月前だっただろうか?いや、日付も、場所もはっきりと覚えているはずなのだ。忘れようがない。昨年の十月三十一日で、場所はホテルの喫茶店だ。沙羅は大きなイチゴのケーキを食べた。そんな時に食欲があることに私は心中驚いた。
沙羅と交わした会話も、彼女の着ていたブラウスも、赤いテーブルクロスも、記憶に留まっている。彼女は、やせた体型にブラウスがよく似合った。
そう、私は、その話し合いのために数か月を費やして計画を立ててきたのだ。だから、はっきり覚えているのが当然だ。しかし、それにも関わらず、記憶は白い霧の中に包まれたようで、本当の出来事だという実感がない。いや、あの日だけではない。今は、沙羅と過ごした時間の全てが、夢のように実感を伴わないものになっている。
「もう潮時だと思う。あなたもそう思うでしょう?」
沙羅は、その時、確かそう言った。沙羅は、うなじが美しかった。彼女のうなじを見ると、かつて愛撫した体を嫌でも思い出さざるを得なかった。これからは、あの体を目にすることはなくなるのだ。
「パパ、お風呂入ろう」
娘の声で我に帰った。
「ああ、入ろうか」
「パパ、私、犬が欲しい」
「うん」
「ママも犬が好きなんだって。パパも、犬欲しいでしょ?」
「うん、そうだね。でも、パパは猫が好きかな」
娘は不満そうに口を尖らせた。
「今まで猫が好きなんて言ったことないのに」
「でも、ママも犬が欲しいって言ってたもん。うちはお庭が広いんだから、大きい犬でも飼えるし、犬欲しいよ」
私は適当に誤魔化して娘を寝かしつけた。確かに、妻も娘もずっと犬を欲しがっていた。もう、誤魔化すのも限界だろうか。しかし、犬はまずいかもしれない。
私は、庭に出て、物置に入った。妻も娘もあまり用がないので、ここに入ることはない。自分の仕事にいつも少しだけ満足を覚えるのだが、ほとんど何の痕跡も残っておらず、白いペンキで美しく塗装されており、とても古い物置とは思えない。しかし、犬は微妙な匂いでも感じるかもしれない。
物置の床下には、数か月前に私が埋めた沙羅の遺体が隠されていた。もはや白骨と化しており、もう会話を交わすことはないが、これで沙羅は永遠に私のものだ。
しかし、手に入らないものほど情熱を掻き立て、手に入ると醒めてしまうものだ。かつて、あれほど求めた沙羅を、次はどこに隠すか私は思案を始めた。厄介な仕事だが、やり遂げてみせる。
夜空に満月が浮かんでいた。月はまるで血が染みた後のように赤みがかっている。