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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「蛸の夢」海野抄

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第34回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「蛸の夢」海野抄

萎びた触腕で母蛸は目を擦った。視界が霞んでいるのは自身の老いのせいか、それとも日々続く飢えのせいなのか。かつては豊かな漁場だったこのコミューンも、今は寂れ衰えていた。

「こんな時、父さんがいてくれたらねぇ。父さんなら、きっと何とかしてくれたよ。でも、もしかしたら、あたしと一緒にあんたのお荷物になってたかも知れない。余計な口は一つの方が、まだマシかもねぇ」

「そんなこと言うなよ母さん。明日にはきっと、何か捕まえられるさ」

息子の蛸は母親を安心させるように言った。それからじりじりと、何も得られずに倦怠感と飢えだけが増していく日々を二匹は過ごした。そうして、生きているのか死んでいるのかも曖昧な意識の中に突然、鮮やかな色彩が現れた。新鮮でいたいけな生き物が、どうぞ、と差し出されている。乾ききった食欲に潤いが注がれ、長らく忘れていた幸せな感覚を思い出し、心が高ぶり母蛸は興奮した。瑞々しく艶めくその生き物は息子の声で言った。

「俺の腕を喰ってくれ」

息子蛸は自らの身体を母親の目の前に差し出して、ただ、そう言った。

「そんなことは出来ない」

母蛸は空腹をこらえて眠りについた。また何日も飢えた日が続いた。世界は滲み、漂い、朦朧とし、霞み続ける。その中で鮮やかに輝く、若々しい腕。力強く輝いている。きらきらと、つやつやと。口に含めば、さぞ甘かろう。噛めば溌剌と爽やかにはじけるだろう。若い体を持った生物が、「頼む、喰ってくれ」と言ったような気がしたが、母蛸は目を閉じた。

日々は巡り続け、二匹の蛸の目は互いにギラギラと光り始めた。

「このままではどうせどちらも死んでしまう」

「お前はあたしらの希望だ。あんたを喰ったら父さんに申し訳が立たない。それなら、あんたがあたしの腕を喰いな」

「そんなことできない」

「このままじゃ、共倒れするよ。それなら役に立ちたいんだ」

「それを言うなら俺だって。母さんの役に立ちたいんだよ」

二匹は身を寄せて一晩中泣き通した。その翌日、息子蛸は薬を二錠持ってきた。

「これを飲めば俺たち、もうゆっくり休めるんだよ、母さん」

息子の言葉を聞いた母は迷いなく飲んだ。不思議と安らかな気持ちだった。悩んで悩んで、二人で出した結論。ここまで苦しみぬいたのなら悔いはもう何もない。身体に張り詰めた力が解けて柔らかくなり、ゆっくりと意識が薄らいでゆく……。

そして、もう二度と開かないはずの目がなぜか開いた。周囲の光景が大きく様変わりしていて、今までに見たことのない景色の中に母蛸はいた。

「母さん、ようやく目が覚めたね」

「あの薬は死ぬ薬じゃなかったのかい?」

「あれはゆっくり休む薬さ。もう三世代ぐらい時が経ったんだよ。あのさ母さん。俺、謝らなくちゃならない。あれは高価な薬で腕六本で一錠分の薬代だったんだ。だから、ほら」

息子も自分も、八本足の身体から、二本の触腕を残すだけの体に変わっていた。

「おばあちゃんがおっきしたぁ」と、小さな蛸が二匹まとわりついてきた。

「母さんが眠っている間に作ったクローン達だよ。かわいいだろう」

息子とそっくりの二匹が嬉しそうにはしゃいでいる様子を見て家族で穏やかに暮らしていた日々が蘇り、母蛸は息を飲んだ

「良ければクローンの腕を切って、母さんに移植しようと思うんだけど、どうだろうか」

「あたしはもういい。もしかしたら子蛸達も腕を切らなくちゃならない時が来るかもしれないだろう。そんなことより聞いておくれ。あたしは目が覚める前に夢を見ていたんだ。夢の中では薬なんて買えずに、結局、あたしがあんたの腕を毎日食べ続けてた。最後にはあんたの腕は、とうとう一本も」

母蛸の目が周囲の光を吸い込んで膨らみ、水滴があふれだした。

「泣くなんて馬鹿だな。夢の話なのに。でも、俺も毎晩夢を見るよ。新薬が効かなかった時の夢を。同じコミューンの仲間から恥知らずと責められて辛かった。元のコミューンは絶滅してしまったけれど、大丈夫だよ母さん。こっちが、本当の現実なんだから」

息子蛸は優しく微笑んだ。

辺りに響く機械音と子供達の声が和音になって、母蛸の体を優しく包み込み、誘った。母蛸はゆっくりと目を閉じた。