阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「平凡な幸せ」嘉島ふみ市
祐二と付き合って三年経つ。そして一緒に住んで一年経った。来年、私は三十歳になる。結婚したい。
まあ三十までにはプロポーズしてくれるだろうとのんびり構えていたら、あっという間に一年が過ぎてしまった。それでも我慢していたけど、待てど暮らせどプロポーズの素振りすら無い。
私も色々仕掛けてはみた。結婚情報誌を何気なくテーブルに置いておいたり、ドラマで女優がウェディングドレスを着てるシーンが流れたら、ちょっと大げさに羨ましがってみたりと。でも、祐二は何時もノーリアクションだった。
ノーリアクションどころか、最近は会話すら減った気がする。そもそも口数の多い男ではないのだけど、一緒に暮らしだしてからはさらに減った。倦怠期すらすっ飛ばして、一気に老後を迎えてしまったみたいだ。
ある日、私は耐えられなくなって、とうとう自分から口に出してしまった。
「どうするの私たち」
「ん? んー」
これだ。『ん』の長さだけで返事してくる。モールス信号のように。
まだ結婚したくないのならそれでもいい。でも、意味もなくただ伸ばされるのは苦痛でしかない。私は頭に血が上って思わず言った。
「もう別れる?」
「ん? んー」
もう私の中で限界を感じざるをえなかった。別れ話でさえ、こんな風にはぐらかされたらお終いだ。
「祐二には夢とか無いの」
涙声になった私の質問に、祐二が首を傾げ考え出した。久しぶりに見る反応だった。しばらく考えて口を開く。
「俺は平凡に暮らしたい」
その言葉で私の中で終了のベルが鳴った気がした。
泣きながら手あたり次第荷物を鞄に詰め込んで、着の身着のまま部屋を飛び出した。その間も、祐二は何考えてるんだが分からないような、ぼーっとした表情で私のことを見ていた。
アパートの階段を駆け下りて立ち止まる。追いかけて来る足音は一つも聞こえてこなかった。
もう全て終わったんだ。そう思いながら行くところもない足は、近所の公園に向かった。
公園のベンチに座って涙を拭きながら考える。新しい部屋を探さなければいけないこと、月曜に会社で祐二に会ったらどういう顔をするかということ、同僚たちへの言い訳を考えなければいけないこと。それより何よりも、また旦那探しをゼロからスタートしなければいけなくなってしまったこと。
大体、将来の夢が平凡に暮らすことって有りえない。将来の夢って言ったら、もっとこうきらびやかで、裕福なものにならないと。と考えて止まった。ふと思う、私の将来の夢って何だろう。
紅茶のグレードと持ち寄ったお菓子のグレードを比べ合うような、ママ友の会がやりたいわけではない。素敵な奥様として読者モデル風に、もてはやされたいわけでもない。
「私も平凡に暮らしたいな」
ふとこぼした自分の言葉に、自分が一番びっくりした。
たくさんのお金を手にして良い家に住む夢もいいけど、平凡な生活を送りたいというのも立派な夢じゃないか。
そう思ったが、その平凡を求める男とは今さっき別れてしまった。追って来る気配も無かったし、もう祐二にも見限られてしまったんじゃないかとも思う。
後悔に押しつぶされながら公園のベンチでうなだれていると、祐二が缶コーヒーを二つ持って歩いてきた。
行動をあっさり見抜かれてしまう自分の思考力にもがっかりしたが、それ以上にがっかりしたのが祐二の仲直りのしかただ。缶コーヒーって。本当、平凡な仲直りのしかただ。缶コーヒーも微糖、平凡だ。
「帰ろう」
祐二の言葉も平凡だった。ありきたりで平凡だ。平凡だったけど、幸せだ。
そうだ、私はこの人と平凡に結婚し、平凡に生活し、平凡に幸せになるんだ。それだって立派な夢だ。
私は一人で勝手に嬉しくなって、祐二に聞いた。
「私と結婚したい?」
「ん? んー」