文章表現トレーニングジム 佳作「おまえがいないと寂しいよ」 嘉久記章
第9回 文章表現トレーニングジム 佳作「おまえがいないと寂しいよ」 嘉久記章
たった一年だけ、東京で暮らした。東京の大学を受けたが落っこちた。東京の大学に合格する為には東京の予備校に通うのが一番だと屁理屈を言ったら、ああそうかと父が頷いた。
言ってみるものである。中目黒の親戚の家に下宿し、代々木の予備校に通うことになった。我が家は先祖代々由緒正しい貧乏人だが、両親は子の教育には金を惜しまなかった。
勉強はそっちのけで遊びに回った。だって、東京だぜ! だって、一人暮らしだぜ! ない物はない花の都で誰にも干渉されず、勝手気ままに遊べるチャンスを棒に振るような勿体ない真似ができるかってんだ、ベラボーめ!
二月ほど経って、母から手紙が来た。ありふれた内容だった。風邪をひくな。ちゃんと食え。しっかり勉強せよ。都会は誘惑が多いから気をつけろ等々。母が目の前にいたら、一々うるさいよと怒鳴っていただろう。
手紙の最後にポツリと一言「おまえがいないと寂しいよ」と書かれていた。よく見ると文字がにじんでいる。書いていて涙を落としたのに違いない。目がその十二文字釘付けとなった。その夜、東京に来て初めて泣いた。
時が流れ、母が亡くなって何年も経ったある日、ふとあの手紙の最後を思い出した。
この世でおまえがいないと寂しいよと本気で涙をこぼしてくれる人は、一体何人いるだろうか? その時、初めてわかった。俺は、かけがえのない人を失ったと。今では毎日母の遺影に言う。「母さんがいないと寂しいよ」