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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「虫」村上愛世

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第33回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「虫」村上愛世

「おぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ、」

もう無理だ。もうこれ以上は頑張れない。

テーブルに置かれた離婚届が滲んで見える。既に署名欄に記入されている夫の名前が止めや払いまで、漢字ドリルの見本のように正確に書かれている。離婚を言い出された事だけでも傷ついたのに、普段乱暴な字しか書かない夫が、離婚届に書く自分の名前をことさら丁寧に書いた事に二重にショックを受けた。

朝使った食器が流しに積み上がり、まだ干していない洗濯物がしわくちゃのまま籠に入っている。部屋の片隅には未使用のおむつの山やおしり拭き、ミルクの缶が陣取り、その横には出産祝いにもらったぬいぐるみや友達から送られてきたお古の子ども服が積んである。壁にはアイロンをかけなければならない夫のYシャツが五枚もかけてあり、そんな乱雑な部屋の真ん中で、生後五か月の娘の香がベビー布団に寝転がってミルクを欲しがり泣き叫んでいた。

「香が産まれてから、お前変わったよ。もう俺が好きだったお前じゃないよ」

当然だ。妊娠がわかったと同時期に夫の転勤が決まり、仕事を辞めてついてきた。つわりが酷く、妊娠中は家事もままならなかったのは私が悪かったのだろうか。しょっちゅう真っ青な顔でトイレに駆け込む私を、初めの頃こそ心配そうに見ていた夫だったが、やがてそれが嫌悪の表情に変わり、最後には無言で目を逸らすようになった。

そしてそれは香が産まれてからも変わらず、ミルクだ、おむつだ、沐浴だと必死に駆け回る私の横で夫は大きなため息をつき、無言でテレビの音量を上げるのだった。そんな夫に対して私もイライラが募り、「手伝ってよ!」とか「もう嫌だ、一人じゃ無理!」と声を荒げてばかりいた。

「好きな人が出来た」

そう言って出て行った夫の横顔が思い浮かび、まだ涙が出る。まだ五か月の香と二人でどうやって生きていけばいいのか。夫はもう二度と帰って来ないつもりなのか。今頃別人の部屋で、もう私には決して見せない明るい笑顔でのんびりとくつろいでいるのではないか。つらい、つらい、つらい。もう生きていけない。香と一緒に死んでしまおうか。

「ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ」

泣き続ける香にそろそろと近づき、その小さな首に手をかける。出来るだけ苦しくないようにしてあげたい。ごめんね。ごめんね。ママもすぐいくから。

その時だ。布団の横で這う、何か異様なものが視界に入った。体長五センチもありそうな楕円形をした大きな虫だった。毒々しい赤と黒と緑がまだらに混じり合い、体中が毒々しく光っている。

私は、驚いて後ろへ飛びのいた。こんなに気持ちの悪い虫は見たことがない。。

虫は動きを止めた。こちらの出方を窺っているのだろうか。だがしばらくして、またノソノソと這い始めた。ただでさえ過敏になっていた私の神経はパニックを起こした。

怖い。怖い。怖い。怖い。

虫がどんどん香の寝ている布団に向かって這っていく。怖い。動けない。

一ミリでも虫に触ってしまったらその毒が体中にめぐって死んでしまいそうな気がした。

あっちへ行け、あっちへ行け!

だが虫はすこしずつ香との距離を縮めていく。もう布団の上まで来た。もうあと五センチで香に触れてしまう。虫に触れたら香が死んでしまう!

「私の子に何するのよ!」

気が付いたら香を抱き上げ、右足で思いっきり虫を踏んづけている自分がいた。何度も何度も踏みつけた。そしてたった今、自分の手で命を奪おうとした我が子を力いっぱい抱きしめ声を上げて泣いた。

夫と離婚した後、未来はどうなるのか私にはわからない。

だけど未知の物が何度私達を襲って来たとしても、私はこの子を守っていくのだと本能で感じるのだった。