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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「切符を失くした男」伊瀬由孝

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第32回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「切符を失くした男」伊瀬由孝

エス氏は酒に弱く、飲むと前後の記憶を失ってしまった。さらには目が覚めてもしばらくはすっかり頭が回らなくなり、まともな状況判断もできなくなってしまう性質だった。

そのエス氏がある朝目を覚ますと電車に乗っていた。前後不覚のまま駅に降り、改札を通ろうとしたとき、手に切符がないことに気がついた。

上着やズボンのポケットを裏返しても切符はない。財布の中身をぶちまけても切符はなかった。

エス氏は切符を失くしたのだ。

鞄の中を探そうとしてあたりを見回したが、鞄はなかった。

電車に忘れてしまったと思ったが、起きたときには手ぶらだった。

上着とズボンを脱いでためつすがめつ探しても切符は出てこなかった。

靴や靴下の中にもなかった。

ほかの客にじろじろと見られたので、通報される前に上着とズボンを着た。

もしかしたら、自分はカツラだったのではないかと思い、髪の毛を引っ張った。カツラならその隙間に切符を隠すこともできる。

しかしいくら引っ張っても頭皮はとれることなく、かわりに何本かの髪の毛がぶちぶちと抜けただけだった。

ふたたび悩んだエス氏はふと、昔見たテレビ番組を思い出して、急いでトイレへと向かった。

エス氏が思い出したテレビ番組というのは、麻薬の密輸を取り扱った番組だった。

密輸の現行犯で捕まった犯人は尻の穴の中に麻薬を隠していた。

もしかしたらと思い、早速トイレで確認したがそこにも切符はなかった。

飲んでしまったのかと思って、のどに指を差し込んで吐こうとしたが酸っぱい胃液がでるだけだった。

どこかで切符を落としたのだろうと考え、記憶をたどってみたがそもそも切符を買った記憶がなかった。

だとしたら無賃乗車である。

普通の人だったら切符を失くしたと察した時点で駅員に申し出て、せいぜい割り増し料金を支払うことを選ぶが、エス氏はそこまで頭が回らなかった。

どうしていいかわからないが、このままでは無賃乗車で逮捕されてしまうのではないかと考え、気が気ではなかった。

トイレを出て改札の前をうろうろしていると、一人の駅員と目が合った。エス氏は慌てて視線を逸らした。

しかし駅員はそんな態度を怪訝に思ったのか、エス氏に近づいてきた。

エス氏は緊張して、体中から汗が噴き出た。胃も痛くなってきた。

エス氏は緊張すると便意をもよおした。先ほど切符を念入りに探したせいか、心なしか肛門が緩んでいて落ち着かなかった。

今まで酒の失敗で周りの人に多大な迷惑をかけてきたが、前科は一切持っていなかった。ノミよりも小さい心臓のエス氏は、とうとう警察の世話になると考えるだけで、気を失いそうになった。

ところがそうとは知らない駅員は、卒倒寸前のエス氏に親しげに話しかけてきた。

「やあ、こんにちは。昨夜はだいぶ酔いつぶれていたけど、無事に家に帰れたかい?顔色が悪いけど二日酔いかな」

そして最後に言いにくそうに、上着が裏表逆になっていることを指摘すると、苦笑いをして去って行った。

エス氏はあっけにとられて、言われたままに裏表を直そうと上着を脱いだ。

そこで愕然とした。

エス氏が着ていた上着は、先ほどの駅員が着ていた制服と同じだったのだ。

「あっそうか、おれは車掌だったんだ」

エス氏はそう叫ぶと、慌てて車掌室へと走って行った。