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阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ソフトクリーム溶けた」朝霧おと

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第32回 阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「ソフトクリーム溶けた」朝霧おと

男はいつものように駅のトイレに入り、たった今スッた財布から現金を抜き取った。

二十万円ある。やったぜ。一週間分のかせぎだ。

金はアタッシュケースの中に入れ、盗んだ財布はゴミ箱に捨てた。鏡の中の男はどこからどう見てもビジネスマン、とてもスリには見えない。

今日の仕事はこれで終わり。ひとり焼肉でもしよう。

そう思って意気揚々とトイレを出ようとしたときだ。一番奥の洗面台に封筒が置かれているのに気づいた。人のものは自分のもの、忘れ物も自分のもの。男は周りに人がいないことを確かめ、すばやく封筒を手にした。十一時二十分発、青森行きの切符が一枚。

ふるさとの青森へはもう二十年以上帰っていない。親の墓参りのひとつでもしてこい、という神様からの忠告なのだろう。男は何食わぬ顔でその切符をジャケットの内ポケットに入れた。

新幹線の席に着くなり、奮発して買ったステーキ弁当を広げた。なにしろ一日で二十万円だ。一週間遊んで暮らせる。

次の駅に到着し、隣の席に女がやってきた。三十代半ばというところだろうか。妙に色気のある女だった。女は男を見ると少しひるんだようだったが、男は気にしない。まさかスリだとわかったわけでもあるまい。やり手のビジネスマンの出張にしか見えないはずだ。

女は席に着くやいなや携帯電話をいじりだした。器用に動く女の指先を横目で見ながら、男は軽くゲップをした。するとそのゲップが合図だったかのように、突然女ははげしく肩を揺らし始めたのだ。よほど可笑しかったのだろう。男は小声で「失礼」と言った。それでも女の揺れは止まらず、そのまま崩れ落ちるようにして上半身を折った。

そこまで面白いか? 男はしらけた気分でペットボトルの茶を飲んだ。

数分たっても、女の背中は小刻みに上下している。鼻をすする音もする。

もしかして……泣いてる?

「あのう、大丈夫ですか?」

男がしどろもどろに声をかけると、女はようやく頭を上げ、涙でぐちゃぐちゃになった顔を男に向けた。

「裏切られました。彼、逃げたんです」

女のすがるような目に男の胸はどくんと鳴った。

「ふたりで逃げようって誓ったのに。必ず行くからって言ってたのに」

ああ、不倫の逃避行ってやつか。女は覚悟ができているが、男はたいてい怖くなって逃げるものだ。

「メールもラインもすべてブロックされました。私はなにもかも捨ててきたのに……」

「子どもは?」

「いません。彼のほうには三人。私は離婚届をテーブルに置いて……」

「そりゃ男は逃げるな。早まったね。青森に着いたらとりあえず観光でもして、二、三日泊まってこれからのことをゆっくり考えれば?」

「あなたはどちらに行かれるのですか?」

「両親の墓参り。長い間帰ってなかったからね」

「ごいっしょさせてください、お願いします」

もちろんオーケーだ。ひとりよりふたり。楽しいた旅になりそうで胸がわくわくした。

駅でレンタカーを借りた。しばらくぶりなので、墓までの道順に自信がなかったが、なんとかたどり着くことができた。

「私の親は健在だけど、もう会えない。こんな私を許してはくれない」

女は線香をあげながら苦しげに手を合わせた。

「大丈夫。どんな娘でも親は受け入れてくれるよ。たとえ君が犯罪者になってもね」

どの口が言う。親にはあきれ果てられ、十八歳で勘当された身ではないか。

それでも男は墓参りをして清々しい気分になった。

その後、東北自動車道を一時間ほど走ったところでサービスエリアに入った。

「休憩のついでにホテルを探してみよう」

トイレを出てから女のためにソフトクリームと緑茶を買った。人のために何かをすることがこれほど気持ちいいとは知らなかった。女とともにここで暮らすのもありかもしれない。自然に顔がほころぶ。

スキップをしたい気分で車に戻ろうとしたときだ。男の顔が突如蒼白になった。停めたはずの駐車スペースに車がないのだ。周りを見渡してもどこにもない。

やられた……。

手の甲をソフトクリームの汁がポタポタと流れる。さらに滴り、男の靴先をじっとりと濡らした。