阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「質流れ」鶴田千草
「そうですね。このお品ですと、このくらいでしょうか」
黒い布貼りのトレイに置いた腕時計を慎重に見ていた店主は、カウンターの上の大型の電卓のキーをたたき、数字が見えるようにこちらに向けた。それを見た悟(さとる)の眉が寄る。
「大変良いお品なのですが、このタイプは数多く出回っておりますので」
悟は腕を組んで天井をにらんだ。どうしようかと考えているように見せてはいるが、実のところ、選択の余地はない。必要分には足りないが、しかたないか。
「もしよろしければ」
店主が悟の腕時計を取り上げ、クロスで丁寧に磨きながら声をかけてきた。
「他のお品でご用立てもできますよ」
「他の品?」
悟は外国人のように両手を広げて見せた。
「そんなもの、ないよ」
あれば、父親の形見を質入れしたりしない。
「質草は形のあるものとは限りませんよ」
意味ありげな店主の言葉に悟の顔がひきつったのに気づいたのか、店主が笑って顔の前で手を振る。
「誤解のないように申し上げますが、内臓とか眼球とか、そういう話ではありませんよ」
さすがにそこまでは考えてなかったけど。
「例えば、そうですね」
店主はあごに手をあてた。
「声、とか」
「声?」
人魚姫じゃあるまいし。
「先ほどからお聞きしていますが、お客様はたいへん良いお声をお持ちです。そのお声でしたら」
店主はちょっと考えてから再び電卓のキーをたたいた。表示された数字はさっきの倍以上だった。何だかとても……うさんくさい。
悟の沈黙をどう解釈したのか、店主はカウンターの上に身を乗り出した。
「お客様、失礼ですが、アナウンサーとか声優とか声を使うお仕事では?」
「違うよ」
悟は中古車の販売員をしている。
「では、声そのものが商売道具というわけではないのですね。いえ、声が出なくなるということはありませんよ。ちゃんと代声をお出しします。選べませんが、普通に生活するのに支障はありません。お預かりしたお声のほうは、毎月のお利息を入れていただければ流れることはございませんし、プラス元金をお持ちいただければ即日お返しできます」
店主はにっこりと笑って悟を見た。
「いかがでしょう」
悟は再び腕を組んだ。自分の声が良い声だなんて考えたこともなかった。質入れしてしゃべれなくなるならさすがに困るが、そういうこともないらしい。
「よし、のった」
悟は腕組みをといた。
「声、預かってもらおう」
質入れして最初の数カ月は、悟は真面目に利息を払った。店主が出してくれた代声は可もなく不可もなく、という感じで、良い声というのではもちろんないが、かといってとりたてて悪声というわけでもなかった。周囲も当初は、「なんか声、変じゃない?」とか、「風邪ひいてる?」とか言っていたが、そのうち馴染んだのか何も言わなくなった。悟自身も代声に慣れてくると面倒くさくなって、ほったらかしにするようになり、そのまま一年以上が過ぎた。やがて悟は声のことをすっかり忘れてしまっていた。
ある日、悟は部屋でテレビニュースを見ていた。最近頻発している電話による詐欺の話題だった。これだけ話題になってても、まだ騙される人間がいるんだよなあ。そう思いながらぼんやりと画面を見る。よく見る人気アナウンサーがしゃべっていた。
「……以上が詐欺の手口です。大変巧妙かつ悪質なことはもちろんですが、何より、被害者が揃って証言したところによりますと、犯人の声がとても誠実そうな良い声で、うっかり騙されてしまったということです。私も声を使った仕事をさせていただいている者の一人として、許せない思いでいっぱいです」
アナウンサーは深刻そうな顔でうなずき、言葉を続けた。
「その犯人の声を被害者のお一人が偶然に録音しておられました。警察の許可を得て、今から放送いたしますので、皆様、よくお聞きになってくれぐれもお気をつけください。では流します」
どれどれ。みんなが騙されるイケボってどんなだ。悟はリモコンをとってボリュームをあげた。流れてきた声を聞いてリモコンを落としそうになった。
それは一年以上前に質入れした悟の声だった。呆然とする悟の脳裏に店主のうさんくさい笑顔が浮かんだ。