選外佳作「予行 鹿布団助」
泰介は三十の誕生日を迎えてから、同じ夢ばかり見るようになった。
とあるお寺に迷い込み、ひっそりとした境内を流れ歩く夢。どこへいくでもなく、たった一人で。
何日も何日も夢で広い敷地を彷徨い、その間にある考えに至った。
死後の世界とはこういうところなのかもしれない。おそらく、もうじき死ぬのだ。であるとしたら、あの世に旅立つ為の予行か何かをさせられているのではないだろうか。
樹林に囲まれた境内はいつも濃い闇に包まれていて、仄暗い茂みの奥から水の音が聞こえてくる。
おそらく湧き水か何かの音だろうが、閑散とした物寂しい空間に一欠片の温かみをもたらす、心地よい音色だった。
しかしある日から、そんな些細な音などまるで耳に届くなった。打ち上げ花火のような荒々しい爆発音が断続的に聞こえてきたからだ。
それはまるで怪獣の鳴き声か何かのように聞こえ、その他一切の音を吹き飛ばしていった。
泰介はあまりの音に不安になった。
夢から醒めてしまいそうだ。朝が早いのでとりあえず睡眠を妨げないでもらいたかった。
あちこちから鈍い爆音が鉛色の空をぐらぐらと揺らしている。しかし不思議なのは、音の鳴る方に何も見当たらないということだ。
夢に不思議も何もないかもしれないが、花火どころか人影も何も存在しないように思えた。
なので、後ろから声を掛けられたときは大層驚いた。
「あのう、お兄さん。煙草はできるだけご遠慮していただけますか」
振り返ると、そこにはすらりとした背恰好の婦人が――数年前に他界した母親が立っていた。
「母さん……」
泰介は右手に煙草を挟んでいたことに気づき、火は付いていなかったのでそのまま胸ポケットに突っ込んだ。
そうこうしている内に、母も泰介であることに気づいたらしい。
「あんたって子は……煙草は控えなって、あれほど口を酸っぱくして言っていたのに」
「ああ……ごめん」
そういえば、母は生前お寺が好きで、子供の頃は良くついていったものだ。仕事に追われて構ってあげられなかったことが心残りだったのだが……。
寂しくて、迎えに来たのかも知れない。
「まあ、いいわ。元気そうでホッとした。大切にするのよ、体を」
母は苦言を呈してだけで去ろうとする。呼び止めようと追いかけるのだが、追いつかない。
「ちょっと待って、母さんっ」
母の姿が境内の茂みへ消えていく。何を聞いてもおそらく無駄なのだ。満足のいく答えなんて返ってこない。それは分かっているけど、それでも聞いておきたかった。
「母さん、ここはどこ?あの音は何?ここで何をしているの?」
母は一瞬立ち止まったものの、振り返らずに去って行く。
「予行をしているんだよ」
母は言葉と共に闇の中に消えていった。
音も止み、土に立つ足元がひんやりとしてくる。
それからしばらくして、再び大きな爆音が鳴り響いた。それとともに目も眩むような白い閃光が目の前に降ってくる。そしてどこからともなく声が聞こえた。
「もう朝よ」
そこで目が覚めた。
「あ、おはよう」
リビングへ行くと妻はもうスーツに着替え終えていた。エアコンが軽い唸りを上げている。
「あたしもう会社行っちゃうけど、ちゃんとごみを出してから行ってね」