選外佳作「夏の終わり いとうりん」
浅葱色のカーディガンを羽織った妻の敏子が、ゆっくり庭先に降りてきた。盆を過ぎて夜風が涼しくなったとはいえ、カーディガンはまだ早い。体力がなくなり体温の調節が上手くできないのだろう。
「あなた、何をしているの?」
「花火だよ。週末に孫たちが来るからさ、花火をたくさん買ってきたんだ。今夜は予行演習だ」
「予行演習なんて大袈裟ね、十号玉でも上げるつもり?」
敏子がコロコロと笑った。この笑い声が聞けるのは、いったいあとどれくらいだろう。
敏子の病がわかったのは三年前だ。治療は難しく、あと一年の命と宣告された。しかしこの夏で、三年が過ぎた。ずいぶん痩せて体力は落ちたが、まだ歩けるし食事も摂れる。
「人生のロスタイム三年目ね」と、もともと陽気な敏子は笑って見せた。
ブロックで囲んだ中央に、円筒の花火を立てて火を点けると、シュッという音と共に、火花が空に向かって吹き上げた。
「まあ、すごい。炎が噴水みたいね。これはあの子たちも喜ぶわね」
小さな手持ち花火を想像していた敏子は、勢いよく上がる炎に手を叩いた。ようやく音が出るような拍手だが、私は気をよくして、もう一本の花火に火を点けた。
週末、息子家族がやってきた。三人の孫は、五年生の長男と三年生の次男、幼稚園の三男と、男の子ばかりの兄弟だ。静かな家の中が一気に賑やかになる。嫁は気のいい人で、長旅の疲れも見せず、台所に立っててきぱきと動いた。
「母さん、元気そうでよかったよ」
明るいうちからビールを酌み交わし、息子はなかなか帰省できないことを詫びた。働き盛りだから仕方ない。
夜になって、私は花火を縁側に運んだ。
「さあ、おじいちゃんと花火をやろう」
孫たちに呼びかけたが、「やる!」と走ってきたのは幼稚園の三男だけだ。長男と次男は、スマホのゲームを夢中でやっている。
「おれ、いいや。これクリアしたいから」
「おれも」
小学生にスマホは早いなどと野暮なことは言いたくないが、彼らは食事の時以外、殆どスマホを離さない。
「すみません、お義父さん。夏休みは塾と宿題でゲーム禁止にしていたものだから、夢中になっちゃって」
無理やり付き合わせても仕方ない。私は小さな孫だけ連れて庭に降りようとした。そのとき敏子が、スマホに夢中の孫たちに優しく話しかけた。
「おじいちゃんの花火はね、すごいのよ」
「へえ、どうすごいの?」
目線を上げずに長男が言った。
「どうって……あのね、ポケモンが出るわ」
「ポケモン?なんのポケモン?」
次男が身を乗り出した。ポケモンの種類など、敏子にわかるはずがない。口から出まかせだ。それでも一生懸命答えようとしている敏子を見て、息子が助け船を出した。
「この庭、レアなポケモンがいそうだな」
勢いよく立ち上がり、スマホをつかんで庭に降りた。「おれも探す」と次男が続き、諦めたように長男もスマホを置いて庭に出た。一時期ブームになったポケモンを探すゲームだ。レアなポケモンがいようがいまいが、孫たちは庭に集まった。
花火に火を点けると、さっきまでの態度は何だったのかと尋ねたくなるほど、孫たちははしゃいだ。「すげー」と目を輝かせ、「次はこの花火」「おれにも火をつけさせて」と私に纏わりついた。歓声と、炎が照らす赤い頬。孫たちの姿を愛おしそうに見つめる敏子が、縁側にちょこんと座っていた。
派手な打ち上げ花火が終わり、最後に線香花火だけが残った。孫たちは騒いだ後、ポケモンのことなどすっかり忘れ、嫁が切ったスイカを食べていた。
私は敏子と縁側に並んで座り、線香花火に火を点けた。
「線香花火はやっぱりいいわね」
敏子はしみじみ言いながら、ちりちりと風に消えそうな光を見ていた。小さな玉がぽとりと落ちて消えた。あっけないものだ。一瞬だが、線香花火と敏子の命が重なり、胸が苦しくなった。
「あなた、早く次の花火に火をつけて。こんなにたくさんあるんだから」
線香花火の束を持って、敏子が笑った。涼しい風の中に虫の声がかすかに聞こえ、夏の終わりを告げていた。
「来年も、花火をやろうな」
私の問いかけに、敏子は小さく頷いた。