佳作「 ゆめはなび 春日美帆」
どうして誰も見向きもしないのだろう。
その男はオフィス街近くの駅前にいた。「夢を売ります」と書かれた看板を首からぶら下げ、夜の闇のなか、のらりと立っている。安全第一と書かれたヘルメットを被り、危険な実験でもしたかのような黒こげの白衣を着ていた。20代後半くらいだろうか、営業マンをしている私の同期らと変わらなそうな感じだ。彼らよりもずいぶん綺麗な顔立ちをしていたが、世の中「イケメン」だけでは生きていけないことを象徴するかのように、周囲の景色から浮いている。まるで誰の目にも入っていないようで、駅に向かう人々からは完全に存在を無視されていた。
私が周囲と同じように彼の前を通り過ぎようとしたときだ。
「おねーさん、僕のこと見えていますよね?」
不審なイケメンは、間違いなく私のことを見て尋ねてきた。
「ちょっといい話があるんです、ぜひ」
一歩二歩。男が近寄ってきた分、私は後退した。三歩、四歩。五歩、六歩。
壁際に追い詰められ、手をつかれた。身体の底からひやりとした何かが急激に湧き上がってくる。イケメンからの壁ドンも、こんなに嫌なシチュエーションはない。
「僕、夢を売ってるんです。良ければ、線香花火を買いませんか」
翌朝、洗面所で自分の顔を見たら、鼻筋が少しだけ高くなり、染みついていたニキビ跡がきれいに消えていた。化粧のりも良くて、会社制服もしっくり決まる。嫌味な上司は終始機嫌が良くて、仕事のトラブルもない。
ぱちぱちぱちぱち。線香花火は家の花瓶のなかで、精一杯火花を放っている。
その翌日、同僚の営業マンから飲みに誘われた。ずっと気になっていた人だ。トイレの鏡に映った自分の表情は締まりのないものだったけど、目鼻立ちは昨日よりくっきりとバランスが良くアイドルみたいで、結婚宣言でもできそうなほどだった。
ぱちぱちぱち。線香花火は花瓶のなかで、おおきく火花を散らせている。
何もかもが上手くまわり、全てが順調になった。けれど次第に、デートはフラれ、仕事は量を押し付けられるようになった。目鼻立ちがはっきりしていた顔も、次第にぼんやりした平凡な顔になって、数日後には醜い老婆のようになっていた。家においた線香花火を見ると、しぼんだ花のように弱々しく火花を散らしている。
「おやおや、ずいぶんと暗い顔になりましたねぇ。まるで別人みたいだ」
会社帰りに駅前を通ると、いつかの男が現れた。黒こげだった白衣はいくぶんかまともな白色になっている。「夢を売ります」の看板を下げていないせいか、以前より街の景色に溶け込んでいるように思えた。
「線香花火の火薬はわずか〇・〇六グラム。夢は永遠じゃないんですよ」
こっち、手招きして男は歩き出す。路地裏の闇にゆらゆらと白衣が吸い込まれていく。周囲の人はやっぱり無関心に歩き去る。ゆらり消える白衣。歩く人々。白衣が消えかけの線香花火に見えて、思わず追いかけてしまった。闇夜に吸い込まれると置いてきぼりにされるのが怖くて、必死に男の白衣の裾を掴もうと手を伸ばした。
「永くながく落ちない火玉には、良質な火薬が必要なんです」
廃工場のような場所にたどり着いたとき、思わず口元を抑え込んだ。腐敗したようなただならぬ異臭。悲しみ、苦しみ、寂しさ、辛さ、負の感情が入り乱れてそこにあり、胃の底から吐き気が湧き上がってきた。
「初めて会ったとき、なぜ私の名前がわかったの」
感情の火薬を詰める私の手は、もう元の肌色がわからない。男に着せられた白衣はどんどん黒色に汚れていく。
そういえば最初に会ったとき、男の白衣はこんな感じで黒こげだった。
「あぁそれはね」
男の口元が頬につきそうなくらいにやりと笑っていた。
「僕はあなただからですよ」
人通りの多い、夜のオフィス街近くの駅前。
安全第一のヘルメットを被り、「夢を売ります」と看板を下げた私は、今日も歩き過ぎていく人々を見ている。
最高に幸せな人は誰だろうか。
男なら美しい女の姿に、女なら端正な顔立ちの男に姿を変える。姿を変えて、盗りに行く。
恵まれた幸せは線香花火の火玉のようにひっそりと存在している。本人はそれに、全く気付いていないことが多いのだ。