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選外佳作「ボタンの区別 遠藤玲奈」

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第28回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「ボタンの区別 遠藤玲奈」

「昔からずっと気になってて。というか、気に入らなくて」

  ぞっとした。昼日中の、自分が勤めているオフィスビルのエレベーターの中でぞっとすることはめったにない、あるとすれば仕事上の致命的なミスにふと気づいた時くらいだろうが、幸か不幸か今はそれには当たらない。

自分が乗り込んだ時にすでに乗っていたのは、女がひとりだけだった。これといって特徴のない、普通の女だったはずだ。だからこそ、何気なく女の前に背を向けて、つまり女と同じ方向を向いて立ったし、どのような顔だったか服装だったかも覚えていない。何歳くらいかも分からない。

振り返ればそこにいるはずだから確かめればよいのだが、ほんの少し前と違って、すでに普通の女とは言い難い。見ず知らずの自分に、いきなり声をかけてきたのだ。気になってて、だけなら、何がですか、と尋ねただろうか。分からないが、あるいはそうかもしれない。しかし、気に入らない、まで一緒についてきた。これは聞けない。ヤバい女だ。黙って無視しているに限る。

「エレベーターのそれって、ボタンじゃないですか。それで、服に付いてるこういうのも、ボタンじゃないですか」

さらに黙っていると、にゅっ、と俺の左側に腕が現れた。

「こういうのです」

左手の指先で、右の袖についているボタンを示す。

「なんでですか」

「……え?」

意味が分からなさすぎて、一文字で反応してしまった。

「ややこしいじゃないですか。同じ名前」

「はぁ……」

明らかに、関わらない方がよい。が、ここまで絡まれて無言でいるのもまずいかもしれない。この密閉空間で急にキレられることを考えると、いくら女とはいえ恐怖だ。

「でも、あの、あまりないんじゃないでしょうか」

恐怖は判断を狂わせる。何か言わなければと焦るあまり、反論めいた言葉が口をついてしまった。腕を突き出したままの女が、何が、と問い返す。

「このボタンと、このボタンを、どうしても呼び分けなきゃいけないシチュエーションっていうか」

「じゃあ、うどんだっていいわけ」

「うどん?」

「このどっちかのボタンと、うどんを呼び分けなきゃいけないシチュエーションの方が、もっとないでしょう。食べ物だし、うどん」

詭弁という言葉は知っていたが、今、はじめて正しく理解できた気がした。

「ご利用階のうどんを押してくださいませ」

エレベーターガールの物真似らしい。

「分かりました。名前を考えましょう。他のものと紛らわしくない名前を」

「そうです。それがいちばんなんです」

女は声を弾ませ、僕の視界に入ったままの右手でピースサインを作った。そして中指をたたみ、人差し指で斜め前を示す。

「じゃあまず、それは?」

「これは〝おすもの〟です。分かりやすいでしょう」

「〝オスモ〟にしましょう。かわいいでしょう、その方が」

そんな採用基準でよいのだろうかと思ったが、さすがに言わなかった。

「そうですね、では〝オスモ〟で。そうなってくると、こちらは〝カケモ〟?」

ボタンをかける、だ。

「それじゃあ、ひねりがなさすぎるから……〝ふくとめ〟はどうかしら」

そっちの方がよっぽど、というツッコミが喉まで出かかったが、

「是非、そうしましょう。〝オスモ〟と〝ふくとめ〟です」

きっぱりと宣言した。これで一件落着、のはずだった。

「じゃあ、これは?」

女は一歩踏み出し、僕のすぐ左に立った。怖いもの見たさで反射的にそちらに目を向けると、女の身体は九十度回転し、壁に正対した。つまり、見えたのは背中だ。白いブラウスのようなものを着て……いたのを、突然、脱いだ。そして、あらわになった背中には、

「唐獅子、何なの、これは」

今度こそ、言葉を失った。こんな花だったのかと、映画以外ではじめて目にしたそれをまじまじと見つめた。

軽い振動の後、エレベーターの扉が開いた。一階のロビーの眩しい光の中へ、女は背中をはだけたまま、堂々と踏み出していった。

緋色がそこに、くっきりと咲き誇っていた。