佳作「歯痛のもと 津家杉まちこ」
左頬にはっきりと痛みを感じ、やっぱりな、と思った。おそらく左上の奥歯から二番目。しかし、もはやそれも定かではない。痛みは左上半身全体に蔓延し、目の奥から首筋までじんじんとうなりを上げている。首筋をもみほぐしたり下顎のあたりを押したりしてみたが、効き目はない。夜の十一時半に歯医者は開いていない。妻もまだ帰ってきていない。ひとまず患部を冷やそうとアイスノンをとりに行きかけたとき、電話が鳴った。
妻からと思って受話器をとった。
「夜分に申し訳ございません。田中さまのお宅でしょうか」
我知らず、ため息がでた。違います、とそっけなく答えると、それはたいへん失礼をいたしました、と丁寧に謝られ、その申し訳なさそうな声音にわたしも口調をゆるめて、では、と電話を切ろうとしたとき、受話器の向こうの相手がいった。
「あの、違ったらごめんなさい。でも、もしかして歯が痛むんじゃありません?」
わたしは一瞬固まったあと、ゆっくりと部屋の中を見わたした。いつもと変わらないリビングだった。カーテンはきちんと閉められている。ソファのクッションの位置だって今朝と同じままだ。
「いえ、まあ、ほんの少し、そんな感じで」
電話の相手がなんとかしてくれるのではないか、という淡いけれどせっぱつまった期待と、あやしい宗教がらみの手練れかもしれない、という不信感が混ざり合って、煮え切らない声がでた。
「それはお気の毒に。声の調子がね、ちょっとそんな感じでいらしたから。歯が痛むときは歯茎をもみほぐすといいんですのよ。最初はね、たいへん痛みますけれど、だんだんと落ちついてまいりますから」
わたしは受話器を持っていない右手の人さし指を口の中にそっと入れ、患部付近の歯茎を押してみた。眉根が引っつきそうになるほどの鋭い痛みが、全身をはしった。
「でもね、ほんとうの原因はそこじゃないかもしれませんわよ」相手はためらいがちな調子でつづけた。
「いえ、ね、こういうのは全体的なものですから。原因と思っていたことのさらに原因があり、その原因のさらにその原因があるものでございましょう? 多くの人は早く答えをほしがって、いちばん分かりやすいかたちで答えを決めつけてしまいます。だから、気づいたときにはもう手遅れといいますか、後悔先に立たずといいますか。でも、人生なんて往々にしてそういうものかもしれませんね」相手は、ほほほ、と笑ったが、わたしは笑えず、口に指を突っ込んだまま宙をにらんだ。
「あら、ごめんなさい。余計なおしゃべりをしてしまって。気を悪くなさらないでね。きっとただの歯痛ですよ。考えすぎるのが悪い癖だって、よくいわれますの。どうかお気になさらないで。では、ごめんください」
リビングの時計は十二時になろうとしていた。妻はまだ帰ってこない。近ごろ、帰宅がずいぶんと遅い。受話器をふたたびとりあげ、妻の携帯電話の番号をおした。呼び出し音は鳴らずに、すぐに留守番電話センターに接続された。地下鉄に乗っているのだろう。わたしは見当をつけ、ジャケットをはおった。いまから家を出れば、最終電車が到着するころにちょうど駅につく。気づけば、歯の痛みはひいて、いまはわずかに疼くばかりだ。
家を出て、頬の上から歯茎をぐいぐいと押しながら歩いた。駅の階段を降りていくと、最終電車が到着したらしく、人がわらわらと出てきた。だが妻の姿はない。トイレにでも寄ったかと、しばらく待ってみたが誰も出てこない。駅員にうながされ、来た道をひとりで戻った。タクシーで帰ってくるのだろうか。
家の前で、駅とは反対の道をきた妻に会った。
「あら、散歩?」妻はにっこりと微笑み、先に立って門を入っていった。
「遅かったな」嫌味な口調にならないように気をつけながら、妻の背中にいった。
「うん。同じ方向でタクシーに乗って帰る人がいたから、途中でおろしてもらったの」
タクシーが通るような大通りは駅の方にあるじゃないか、だったら携帯電話がつながらないのはおかしいじゃないか。思いはしたが、口には出さなかった。裏道に詳しい腕のいいタクシー運転手だった可能性もある。携帯電話の充電が切れていた可能性もある。そう、可能性はいくつだってあるじゃないか。
妻がバックから鍵をとりだした。淡いピンク色のマニキュアが爪に塗ってある。マニキュアなんて塗る女だっただろうか。左の奥歯に、しくっと鋭い痛みがはしった。ドアを開けた妻が、疲れたあ、といいながら家の中に入っていく姿を、わたしは閉まっていくドアの間からながめた。そして、握りこぶしを頬にあて、歯茎を力いっぱいに押した。