佳作「妻の機嫌 西方まぁき」
最近、妻の機嫌がいい。
酔って帰っても、服を脱ぎちらかしても、以前だったら怒られるようなことをしても、まったく怒らない。
夕飯の料理の品数も増えたような気がする。
しかも、オレの好物ばかり。
家事をする時はいつも溜息ばかりついていた妻が、最近は洗濯したオレのパンツをベランダで干す時ハミングしている。
「なにか(いいことが)あったのか?」
喉まで出かかるが、口に出すことができない。
もし、不用意にそんな質問をしたら
「あら、わかる? 実はねぇ……」
その先を想像するのは恐ろしい。
オレは勤めていた会社をリストラされ、再就職先は、まだ決まっていない。
先月、雇用保険の給付期間が終わり、現在は無収入だ。
わずかな蓄えはオレの飲み代とパチンコ代に消えている。
生活費は妻のパートにより賄われ、今のオレは、はっきり言って妻の「ヒモ」に他ならない。
妻とは遠の昔から会話も夫婦生活もない。
こんな状況で、妻の機嫌が良くなるとしたら、それは「外的な要因」に違いないと容易に察しが付く。
まずはてっとり早く携帯電話のチェックか。
妻が風呂に入っている隙に、食卓に置きっぱなしの携帯電話を手にとる。
パスワードロックもかけていないので、メールも通話の履歴も見放題だ。
予想に反して、あやしそうな相手は見当たらない。
風呂場からは湯船に浸かる妻の鼻歌が聞こえる。
「♪さよ~ぉな~ら~ さよおならぁ 元気でいぃてぇねぇ~」
都はるみの演歌「好きになった人」か。
「♪さよ~おな~ら~ さよおならぁ 好きにならなかったひとぉ~」
ちがうだろ。
もとの歌は「好きになぁた人ぉ~」だろ?
これは、もしかして「オレ」のことを歌っているのか。
オレに聞こえることを想定して、今の自分の気持ち、すなわち「離婚への決意表明」みたいなものを歌っているのか?
ついに来るべき時が来たのか。
離婚といえば財産分与だな。
我が家の財産は、このマンションぐらいしかない。
最近、このあたりが再開発されて少しは土地の値段が上がっているらしい。
とりあえず仲介業者に査定を頼んでおくべきかもしれない。
妻は当然「半分」の権利を主張するだろう。
ここを売ってもローンが残っているから相殺するとたいした額にはならないかもしれないが。
腕を組み、あーでもない、こーでもないと考え込んでいると、いつの間にかバスローブを身に付けた妻が床に座り込むオレを見降ろしていた。
「お先に。湯加減、今ちょうどいいよ」
「あ……うん……」
なんで、そんな優しい顔で微笑みかけるんだ?
家事も手伝わず、仕事もせず、酒を飲むかパチンコするか家でゴロゴロするしかない、こんなオレに。
妻はオレの心の中に渦巻く疑念には全く気付かない様子で、再びハミングしながら寝室へと向かう。
気がつくと、オレはその背中に向かって叫んでいた。
「おい! おまえ、最近……」
少し驚いたように振り返った妻の顔には、笑窪が浮かんでいる。
「なぁに?」
これを質問したら今の生活は終わるのかと思うと言葉が出てこない。
「あの……き……きげんが……」
「あっ! もしかして、キレイになったって?」
妻がきゃっきゃとはしゃぐ。
「やだぁ!」
オレの肩をパンパンと叩き、笑いながら去ってゆく妻の後姿を見て、妻が明るいのはいいことなのかもしれないとも思う。
たとえ、その理由がわからなくても。