佳作「逆さエッフェル塔 黒埜形」
ある朝、目覚めるとエッフェル塔が天井から逆さまに生えていた。
いや、しかし、そもそもエッフェル塔とは何だったろうか? 確かフランスにあったような気がするけれど。慌てて寝台からはね起きた僕は、埃まみれの本棚から百科事典を引っ張り出してページをめくった。
エッフェル塔。Tour Eiffel。フランスの首都パリの象徴的な名所とされる鉄骨塔。高さ三二四メートル。一八八九年のパリ万国博覧会会場に建てられた。
ふうん、なるほど。で、天井から生えているヤツと見比べると……うん、まあ、エッフェル塔だろう、たぶん。細かなところまではわからないけれど、説明文に添えられた白黒写真と、だいたい違いはなさそうだ。
じゃあ、なぜ天井にエッフェル塔が生えたかというと、まるでわからなかった。そう、昨日まで確かになかったのだから。となると夜の内に、にょきにょきとアパートの天井から生え出したんだろうか。僕の目には、はっきり映っているけれど、ひょっとすると幻覚という線もある。それとも、これは夢なんだろうか? つい先ほど寝台から飛び起きた気がするけれど、あれもこれも全部夢の中の出来事だったんだろうか?
そんなことを考えていると、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。
慌てて扉に駆け寄った僕は、しかし、ドアノブを回すのに躊躇した。誰だかわからないけれど、天井のエッフェル塔を見られても大丈夫なんだろうか? 迷った末に扉の隙間から顔だけ突き出すと、なんだか用心深いカタツムリにでもなった気がした。
「おはようございます。早朝から恐れ入ります」
開口一声、爽やかに一礼したのは、青い帽子をかぶった作業服姿の青年だった。差し出された名刺には、実直そうなフォントの字で「逆さエッフェル塔回収業」とある。
「よろしければ、今から引き取らせて頂けないかと思いまして」
朝早くからお騒がせしてすみません。
そう言って青年は、実に申し訳なさそうな表情をつくった。
途端、僕の脳裏にいくつもの疑問が駆け巡った。
果たして青年は、どうやってこの部屋の天井にエッフェル塔が生えていることを知ったのだろうか? そもそも「逆さエッフェル塔」なる代物は、世間ではその回収が職業として成り立つほど普遍的な存在なんだろうか? そして目の前の青年は、何のためにエッフェル塔を回収し、どこに運んでいくつもりなんだろうか?
そもそも逆さエッフェル塔とは、一体全体、何なんだ?
しかし、おそらくすべては夢の中の出来事なのだ。
「どうぞ。なるべく早くすませてくださいよ」
ため息まじりに言って、僕は青年を部屋の中に招き入れた。
寝室に脚立を運びこんだ青年は、ノミのような道具を使って器用にエッフェル塔を天井から取り外した。まさにあっという間の早業で、ものの五分とかからない。肝心の値段の方は、以前、水道の蛇口を壊して市の登録業者を呼んだ時の、ちょうど三分の一くらいだった。作業時間を考えれば、まあ、これぐらいが妥当な気もする。
「またお困りのことがありましたら、いつでもお呼びください」
爽やかな笑顔を顔に貼りつけたまま、青年は扉をくぐって出ていった。
やれやれ、これでようやく平和な朝が戻ってきたわけだ。
そこで僕は、はたと気がついた。
この夢は、一体いつ終わるんだろうか? 天井から生えたエッフェル塔は回収業者の手で取り除かれた。もうどこにも異常はない。けれど、あれが僕の夢であったなら、まだ僕は目覚めないまま、夢の中にいることになる。
まさか、すべては幻覚だったんだろうか? 僕は、おそるおそる寝台脇のテーブルに目をやった。しかし、そこには青年から手渡された名刺が、何食わぬ顔で鎮座していた。実に生々しい現実感をもって。
「どうしたものかな」
我知らず僕は呟いていた。その声は、がらんとした部屋の中に、まるで空洞を吹き抜ける風のような感じで響いた。窓の外からは、自動車のエンジン音や新聞配達のバイクの音が聞こえてくる。
何の変哲もない朝のただ中で、なぜだか僕は、無性にエッフェル塔に取り残されたような気がしていた。