佳作「登山 菅保夫」
霧が?に冷たい。それだけ体が熱くなっているんだ。息は荒く、汗も流れて全身ビッショリになっている。この山は傾斜がきつく、そして頂上ははるかに遠い。人がしがみついているかのように足が重たい。天気予報は青天だったはずだが、ひどい霧で伸ばした手先も見えないほどだ。これは困ったぞ。
めまいがする。高山病か、貧血か、脱水症状かな。とにかく疲労しているんだ、ひと休みしなくてはどうにもならない。とにかく足が動かないんだから。都合のいいことに平らな石のようなものがあった。それに腰を下ろすと深い息がもれた。
喉が渇いている。水分補給をしたいところだが、水筒がない。落としてしまったのか。いつ失くしたのかもわからないんだ。落としたときになぜ気づかなかったんだろうか、我ながら情けない。
仲間たちはみんな先に行ってしまったのか、すっかりはぐれてしまった。少し前まで話しながら歩いていたのだけれど、今は声も足音も聞こえない。声を張りあげて呼んでみるが、何度呼んでも返事がない。私の歩みが遅すぎて、みんなあきれて先へ行ってしまったのだろう。ひどい奴らだ、お前ら全員熊に喰われて死んじまえ。
唾液がネバッこくて気持ち悪い。何か飲物はないのか、水分を体に入れないと危ないのかもしれない。リュックの中を調べてみる、しかし飲物どころか食物も入っていない。もう全部口に入れてしまったのか。入っているのは汗で濡れて着替えた服ばかりで、アメ玉ひとつ見つからない。本当に困ったことになったぞ。
しばらく休んだら体は楽になった。喉の渇きは癒されないが、命の危機とまではいかない。本当に危なくなったら、私の汗を吸った服をしぼって飲んでもいい。そうだ、小便を飲んでもいいんだ。そのうち霧が晴れるかもしれない、ひょっこり登山客が現れて水をめぐんでくれるかもしれない。こういうときこそ物事を明るく考えるんだ。しっかりしろ俺、大丈夫だから……。
休むべきではなかったかな、ヒザを伸ばそうとすると激痛が走る。ヒザの中に尖った金属片が入っているみたいだ。それでも女の悲鳴みたいな声を上げて、どうにかヒザを伸ばしたが、今度は腰が伸びない。もうこれはこれでいい、これでいいけれどもこのままじゃ前に転びそうだ。杖がいる、杖のかわりになるようなものはないか。探してみるとすぐ足元に見つかった、それは何と年寄がよく持っている持ち手がT字のようになったやつである。かなり年配の人がこの山を登ったのだろうか、しかし良い物を見つけた、ありがたく使わせてもらおう。
さあ、いくぞ。そう気合を入れて歩き出そうとしたのだが、ダメだ……。やっぱり足が上がらない。立ち上がることはできたのに、なぜだろうか。思っている以上に体が深刻な状態なのだろうか。連絡を取ろうにも携帯電話はない。下山するにも足が動かないんじゃダメだな……。
歩くのをあきらめて再び座りこむ。風が吹き出して冷えこんできた。汗を吸った服は余計に体を冷やす、このままでは凍死してしまうかもしれない。俺もいっそ熊に喰い殺されたほうが楽なんじゃないのか。ついさっきまで生きる気力が満々だったのになー、情けない。
このまま一人死ぬのか、誰にも看取られずに逝くのはさびしいなー。けれどこれが私の運命なんだろう。ん……、声が聞こえる。下から誰か私を呼んでいる。天の助けか、あの世のお迎えか。
その人はトントントンと軽快に階段を上って来て私の肩にふれ、顔をのぞきこんできた。ヘルパーさんだ。名前は何だったっけ、美人で胸が大きい三十八歳の……。
「サトウさん、足動かないっていってたのに、ここまで一人で登ったの。コレは何、ああ洗濯したんですね。ちゃんと柔軟剤の匂いもする。そうか洗濯物干そうとしたんだ」
「登山だよ、登山。もう足が上がらなくてさ」
「でも、あと二段で頂上ですよ、頑張りましょう。ベランダでビール飲んだら美味しいですよ。ノンアルですけど」
「よっしゃー、ビールじゃー」気合を入れてどうにか立ち上り、ヘルパーさんの力を借りながらこの山を制覇した。
久しぶりにベランダからの景色を楽しみながら、二人で洗濯物を干すと、約束どおりのビールを飲んだ。ノンアルのビールは渇ききった体に染みわたり、表現できないほど美味であった。