佳作「変わります あかさき拓乃」
「初めまして、上埜弥生と申します」
そのマジシャンはナチュラルな笑顔で、テーブルを挟んで座っているゲスト五名それぞれに、名刺を渡し始めた。俺は三回目なんだが。しかしこの名刺、真ん中に〈上埜弥生〉と印字されているだけだし、たしかマジシャンネームは単に「弥生」ではなかったっけ?
「俺とは初めてではないんだけど?」
弥生は右端にいる中堅芸人の俺に、スッと目を合わせた。一瞬、どきっとする。マジックの腕はなかなかだが、見た目は大学生でも通じそうだ。柔らかそうな唇が静かに動く。「もちろん覚えてますよ、松本さん」
「橋本だよ」
スタジオに笑いが起こる。弥生は首を傾げ、
「二回目、ですよね」
「三回目だよ!」
笑いに輪が掛かり、互いに目で「ニヤリ」とした。いい感じだ。弥生は、渡した名刺をポケットにしまわせると、凛とした声で、
「さて、テーブルマジックといいますと、コインやトランプが定番ですが、今回は、このように名刺を使っていきたいと思います」
そこには、〈(株)ズゴック水産、総務課長補佐、六条ゆみ〉とあり、下部には会社の住所などの情報が付記されていた。弥生は、テレビカメラが名刺を充分に捉えたのをみて、
「六条さんは、このたび昇格をされまして、『課長補佐』ではなくなったのです」
持っていた名刺を口元と同じ高さにして水平にした。そして「フッ」と軽く息を吹きかけると、目に見えない「何か」を目線で追った。つられてみんなも追うが、特に何も見えない。すると、「ハイッ!」と掛け声一閃、名刺をクルッとさせて、改めて示した。
違いに気付いたのは、俺の左隣りにいるアイドルの朝倉さとみだった。いい匂いがする。
「えっと、『課長補佐』が『課長』になってる。補佐の文字が消えちゃった!」
スタジオに「おー」という感嘆と、拍手が起こった。弥生は名刺をヒラヒラさせながら、
「これで交換しなくても大丈夫。みなさんもやってみてくださいね」
「できるか!」
今度は笑いが起きた。しかし鮮やかな手並みだ。トリックはもちろんわからない。文字が飛んだというのか? まさかね。
弥生はその後も名刺を「黒白反転させる」や「一気に百枚増やす」などのマジックで、順調に熟していった。ただ、なにか憂いのオーラーみたいなものも感じるのだが。気のせいだろうか。しかし、弥生はリリカルな笑顔で、
「今度の名刺はですね、形が真ん丸なんです」
まさに丸い名前(?)を取り出した。すると、朝倉さとみがなぜか待ってましたとばかりに、
「サッカーボール!」
「翼のドライブシュート!!」と弥生が返すが、
「あ、ごめんなさい。それわからないです」
「時代か……」
いや、お前もタイムリーではないだろ、と俺は思ったがスルーをした。サッカーだけに。そのサッカー名刺には、〈ジュビロ大好き? 朝倉さとみ〉とあった……って、これは、
「はい。さきほど楽屋で戴きまして。でも最近ラグビーにもハマってるということで」
「うん。昨日ラグビー、初観戦しました!」
ここで弥生は、左の胸ポケットから徐にホイッスルを取り出すと、「ピー!!」と吹いて、
「スクラム組もうぜ!」
ホイッスルを真上に掲げて、名刺を持った左手を真横に突き出した。意味が全くわからない。となりで「あっ」と、朝倉さとみが小さく声をあげた。その目線の先、弥生が左手で持っている名刺の形が、
「ラグビーボールだ」
楕円形へと変わっていた。ただ印字は同じく〈ジュビロ大好き? 朝倉さとみ〉とあった。弥生は、まだ驚きを隠せないでいるアイドルに、ラグビー名刺を差し出して、
「ラグビーもジュビロも、応援してね」
「すごーい。ありがとう!」
ほんわかした空気が流れる。たいしたもんだ。しかしここで弥生が、話を急展開させる。
「最後にですね、突然ですが。私、苗字が『上埜』から変わることになりまして」
「結婚!?」俺は思わず反応するが、
「あ、いえ。離婚で旧姓に戻ることに」
スタジオが、ざわっとした。「あ、でも」と、弥生は執りなすように、
「最初にみなさんにお渡しした名刺は、安心してください。もう変わってますから」
俺はとっさにポケットから名刺を取り出す。そこには〈上埜弥生〉の文字が消え、新たに〈竹井弥生〉へと変わった名刺があった。
「えっ……。どうやって?」
こちらの気も知らず、そのマジシャンはシニカルな笑顔で、こう締め括った。
「以上、竹井弥生でした」