佳作「電話嫌い ほしのゆきお」
私は普段、家では決して電話を取らない。会社で一日中苦情を聞く私にとって、電話は地獄への入り口だ。ところが、その日に限ってふっと受話器を挙げてしまった。
「もしもし」
われながら不機嫌な声だと思った。しかしそれも仕方がない。休日の、こちらが一杯やっているときに電話などしてくるほうが悪いのだ。なんと言って噛み付いてやろうか、と思っていると、沈黙が二秒、三秒と続いた。さらに不機嫌になった私が「もしもし?」と言いかけたとき、やっと相手の声がした。
「そんなだから、陽子と離婚することになるんだ」
どこかで聞いたような声だ。というか、私の声にそっくりじゃないか。
「お宅、だれ? なんかの冗談のつもり?」
私の頭には、よく同僚の物まねをしている後輩の米田の顔が浮かんだ。
「お前がいま、米田のことを疑っているのはわかる」
私はめまいがした。まるで自分の声を録音したようなその声は、まさに私が考えていることをずばり、言ってのけた。
「いまお前がどう思っているかも、俺にはよくわかる。実は、俺のところにも“俺”から電話がかかってきたからな」
「そんなたわごとを俺がおいそれと……」
「じゃあ、裕美と不倫していることをだれが知っている?」
私は頭から血の気が引くのを感じた。これはいったいなんなんだ?
「俺は十年後のお前だ。俺のところには、お前から見れば二十年後の俺たちから電話があった」
「ふん、じゃあ五十六歳までは生きられるのか。それだけ生きりゃ充分だし……」
「その五十六の俺たちは末期ガンだそうだ」
私には思い当たる節があった。父が肝臓ガンで亡くなっている。たしか五十八か五十九だった。私は、“俺”の言うことに引き込まれていった。
「だから? 酒を控えろとか言いたいのか」
「お前が控えても遅いらしい。十年前の自分に電話しろ。電話の仕方はこれから言う」
私は、いま自分がなにかの詐欺にひっかかろうとしているのではないかと思った。するとまた、“俺”が言った。
「いいか、これは詐欺じゃない。それに、四十六の俺がこのことを信じられるのにどれだけ時間がかかったか……」
「わかった、もういい! 電話すりゃいいんだろ?」
私は、十年前の自分に電話する方法を聞くと、受話器を置いた。私は頭がおかしくなってしまったのか? しかし、あいつはたしかに私しか知らないはずのことを口にした。そうだ、とにかく電話をかけてみればいいのだ。そうすれば嘘だとすぐわかるだろう。私は言われたとおりの数字を押した。すると呼び出し音の鳴るのが聞こえ、やがて受話器の挙がる音がした。
「もしもーし」
機嫌のよさそうな声だ。そりゃそうだろう。陽子と婚約したばかりで、私にとって人生で一番よかったころだ。私は、四十六歳の“俺”がした説明をそのまま、二十六歳の“俺”にして聞かせた。すると「はあ?」と言って電話は切れた。すると私の記憶が徐々に蘇ってきた。そうだ、たしか若いころ妙な電話が何回かかかってきたことがあった。私は、友人の冗談だろうと思って取り合わなかった。あのときの電話がこれだったのか?
一時間後、二時間後と私は電話をかけ続けた。そのうち、自分の電話嫌いの本当の理由を思い出し始めた。これだ、この電話が原因だったんだ。そして、あれ以来はその電話に出た記憶がないことも思い出した。あと二十年の命か。五十六歳の俺には悪いが、まあいいか、そう思ったとき電話が鳴った。
「もしもし。信じられないだろうけど、俺、二十六歳のあんただから」
いや、信じるとも。ただ、ああ、今日はなんて日なんだ、まったく。
「それでさ、十六歳の俺からさっき電話があって、もう生きてるのが嫌になったからって。あれ、自殺するつもりだと思うよ」
「自殺って、お前当然止めたんだろうな?」
すると突然電話が切れた。慌てて私は、二十六の俺に電話をかけた。受話器の向こうの声が母のものだということはすぐにわかった。
「あの、すみませんが息子さんと代わっていただけませんか?」
「息子? うちにはもう、息子はおりません……」
私だった身体から、受話器が落ちる音だけがむなしく部屋に響き渡った。