佳作「見えない 松尾幸」
目が覚めて起きあがると、足のあたりに激痛が走り、何か赤いものがちらついた。眼鏡をかけていないのでよくわからなかったが、どうやらその眼鏡を踏みつけてレンズを割ってしまったようだった。右足の裏に分厚いレンズの破片が突き刺さり、仕方がないので足を軽くタオルで包んだまま、タクシーで病院へ向かった。まさか起き抜けにこんなヘマをするとは思わなかった。診察を受けるとそれほど傷は深くないということで、縫合の後、今度は会社へ。包帯で足を巻いた上に松葉杖を持って現れたので、会社の連中もはじめは何事かといぶかっていたが、説明すると笑い話になり、みんな仕事に戻っていった。眼鏡がなくなっただけで、それ以外の物事はいつも通り進んでいるように思えた。
おかしいと気がついたのは、業務に入ってしばらく経ってからだ。といっても、私は極度の近視なのでまったく仕事にはならず、ほとんど暇をもてあましていた。書類はぼやけて読めないし、いつも会話する距離程度では人の顔も区別できない。相手が誰なのかは声で判断するしかないが、なんだか次第に、同僚たちの様子がおかしいように思えてならなくなった。ぼやっとした明るい影のようなモノが私に喋りかけては立ち去っていく。いつもの調子で私も言葉を返すのだが、どうにも違和感が残る。休憩のつもりでトイレに行って、鏡を見たときはっと気がついた。鏡に映る私の姿が、私のものでなくなっていることに。
じっと鏡を見つめて、手を上げたり、首をかしげたりしてみたが、やはりそこに映っているのは私の動きを真似する別の何かだった。少し考えた後、思い切って鏡に顔を近づけてみると、ぶつかる寸前のところでようやく焦点があった。それは私の顔だった。ゆっくりと離れていくと、すぐに私の顔は消え、別の何かにすり替わってしまう。私はあまり恐怖を感じていなかった。ああ、こういうふうになってしまったのかと、そのときは感じだけだったと思う。
トイレを出て職場に戻った。手探りで自分の席を見つけて座り、周囲を見渡す。本物そっくりの蝋人形のように、やはりそこは何となく異様な空間だった。ならばいっそのことと思い、隣の同僚に話しかけてみることにした。相手はくすくすと笑い出し、次第には面白くて仕方がないという様子で手を叩いたり、地面に倒れこんだりする始末だった。私は立ちあがり、松葉杖を抱えて別の誰かに声をかけていく。今朝からの顛末や怪我の状態を面白おかしく語り、相手を笑わせる。それを繰り返していくと、最後にはフロア中の人間がこちらを見ただけで笑い転げるようになってしまった。もうわけがわからなかった。ここはどこなのだろう、と思った。自分が送ってきた日常は、生活はどこに行ってしまったのか。こんなことは今まで一度もなかったのに。
ふと彼女の姿が思い浮かんだ。変わってしまった状況の中で、会いたいと思えるのは彼女だけだった。夕方、彼女の携帯に電話をかけてみた。どうせ出てくれないだろうと思いながら。彼女は出た。なに、と警戒する口調で始まったが、その後の生活のことなどを聞いていると、ぎすぎすしたやりとりがだんだんと柔らかくなっていった。思い切って私は誘いだしてみることにした。今夜どこかで会えないかな、と。すると驚くことに、相手の答えはオーケーだった。それじゃあ、後で。電話を終えると心臓の鼓動が聞こえた。なんてこった、と思った。何が起きているんだろう。
業務時間が終わると、すぐに待ちあわせ場所の公園に向かった。汗だくになりながら、ようやくたどり着くことができた。冬が近づいて日はすっかり短くなり、公園に着いたときにはすでに黄昏に包まれ始めていた。ベンチに腰を落として待っていると、少し遅れて彼女はやって来た。久しぶりね、という声で彼女だとわかった。
久しぶり、と私は笑顔で切り出した。そのまま話し続ける。怪我のこと、割れた眼鏡のこと、それから……。そこで彼女が何も言わないことに気づき、私はたじろいだ。
あなた誰なの、と彼女は冷たく呟いた。誰? 誰ってどういうこと。私はそんなことを言ったのだと思う。
自分が自分でなくなったってことも気づけないの、あなたは。遠のく足音が聞こえた。さようなら。もう会えることもなくなったのね。
黄昏とともに彼女は立ち去った。公園には私と、いくつかの微かな街灯が、夜に放置されて立ち尽くしていた。私は自分の手を見つめようとした。両手を顔の前まで持ち上げる。よく見えない。そこで私は、自分がどこかへ帰るすべを完全に失っていることに気づいた。何も見えない暗闇に溶けて、一人取り残されたまま。