佳作「絶対的必須アイテム 家間歳和」
リナコの平手が、ハルトの頬にパチンという音を鳴らした。いきなりの衝撃に思わず顔をそむけたハルトは、どうして、という疑問を抱きつつ、リナコに視線を戻した。
あれ?
怒っているのか、泣いているのか……リナコの顔がよく見えない。緑青色のシャツが背景に溶け込む。眼前のリナコは、すりガラスの向こうにいるように、ぼやけていた。
ハルトは手を目元に運ぶ、と、なかった。かけていたはずの眼鏡がなかった。
おそらく、リナコの平手がはじき飛ばしたのであろう。裸眼は両目とも0・01。眼鏡なき日常は、よちよち歩き幼児に匹敵する行動範囲へと成り下がる。眼鏡は、ハルトの生活における絶対的必須アイテムなのだ。
行楽日和の日曜日のことだ。ハルトとリナコはドライブデートをしていた。
山あいの自然公園で遊んだあと、ドライブコースを走り、ダム湖へ向かった。町が見下ろせる湖畔沿いのスポットで車を降り、景色を眺めながら、たわいない会話のキャッチボールを楽しんでいた。
しばらくすると、しゃべっているのは自分だけだと気づいたハルト。「どうしたの?」と、リナコの顔をうかがった瞬間に飛んできた平手打ちだった。
どの言葉が機嫌を損ねたのか。どの表現が逆鱗に触れたのか。ハルトにはさっぱりわからない。呆然の見本のような表情で立ちすくむハルトに対し、「あたし、もう帰る」と、リナコは背を向けて歩き出した。
「ちょ、ちょっと待てよ。こんな場所からどうやって帰るつもりだよ」と、ぼやけた後ろ姿に声を投げるハルト。リナコは微塵の反応も示さず、すたすたと去って行った。
徒歩で街まで歩くとなると、かなりの根性がいる。空車のタクシーが運良く走っているという確率は、かなり低い。偶然通る車のヒッチハイクは、人一倍警戒心の強いリナコにとって、かなりのハードルだ。十中八九引き返してくる、と確信したハルトは、眼鏡の行方に気持ちを切り替えた。
ひざをつき、地面に目線を接近させ、周囲を捜す。が、見つからない。範囲を少し広げて捜す。が、見つからない。刹那、嫌な予感を意味する汗が、額に流れた。
まさか、ダムに落ちたのでは……。
ハルトは立ち上がり、道路沿いの手すりからダム湖の水面をのぞき込む。ぼやけた視界はダム湖に必要以上の霞をかけている。そこにあるのが水面なのか、土面なのか、コンクリート面なのか。ハルトの裸眼では判別できない塊が広がる。足元に見当たらないのだから、ダムに落ちたと考えるのは必然だ。
ハルトは途方に暮れた。
この視力での運転は、とてつもない危険行為になる。じゃあ、車を置いて帰る? いやいや、今のハルトにとってそれは、リナコが帰る以上の難題である。
どうすれば、どうすればいいのだ……。
ハルトはさらなる途方に暮れた。
「あなたがダム湖に落としたのは、金の眼鏡ですか? 銀の眼鏡ですか?」
いきなりの声、に驚いたが、それがリナコのものであることは瞬時にわかった。声の方を見ると、リナコが着ていたシャツの緑青色が目に飛び込んだ。顔はぼやけて識別できないが、リナコであることは間違いない。やっぱり戻ってきてくれたのだ。
「金でも銀でもありません。僕が落としたのは、なんの変哲もない、黒ぶち眼鏡です」
ハルトはリナコにそう答えた。
「正直者のお前には、これをやろう」
と、リナコが手渡したものは、ハルトの黒ぶち眼鏡であった。
「これって、どこに……」
「ダム湖から拾ってきてあげたのよ」
眼鏡をかけて見たリナコの表情は、笑みを含んだふくれ顔だった。
「わざわざダム湖まで下りてくれたの? やっぱりリナちゃんは僕の救世主だね」
リナコは、照れ隠しのアッカンベェを返した。どうやら機嫌は直ったようである。
二人は車に乗り込み、帰路についた。
おそらく、眼鏡は足元に落ちたのだ。リナコはそれをハルトに気づかぬように拾い、意地悪をしかけてきたのだ。離れた木陰にでも隠れ、途方に暮れているハルトを観察することで、溜飲を下げていたのだろう。
ただひとつ気になる点。リナコの機嫌を損ねた原因はなんだったのか。ハルトは助手席をチラリとうかがいつつ、言葉を発した。
「あのさあ、リナちゃん……」
「なあに?」と返事するリナコの無邪気な微笑み。この笑顔は、ハルトの生活における絶対的必須アイテムだ。波風を呼ぶ詮索はやめておこう、とハルトは前を向いた。
「えっとねぇ……晩飯、何食べようか?」