佳作「標識 九人龍輔」
雲ひとつない青い空の下、果ても見えない荒野の一本道を軽快に飛ばしていたら、いつの間にか背後につけていたらしい白い大型バイクが車のかたわらまで寄ってきて停まるよう手で指示してきたから、やむなく車を脇に寄せてエンジンを切った。
ミラーを窺うと、車の少し後ろに停まったバイクから制服姿の大柄な男が降りてきて、いかにもといった風情で辺りを軽く見回しながらゆったりとこちらに歩み寄ってくるところだった。
普通、白バイなら該当車両を停めてからそのすぐ前に停まるのが定石なのではなかったっけ、とぼんやり考えていると、ヘルメットをかぶって濃いサングラスをかけたその男がウインドウのガラス越しにこちらをのぞきこんできたから、
「信号無視ですか」
とガラスを下げてちょっと軽口めいた言葉が出てしまったのもこの荒野の一本道をひとりじめにして走っていた開放感からだ。
しかし男は口元をゆるめる気配もなく、ぶっきらぼうな口調で言った。
「標識を見たかね」
標識、と言われても、とっさに何のことか思い当たらない。こういう広い土地を走る道に標識があるとすれば、速度制限くらいだろうが、スピードなら生来の慎重な性格からどこでも制限速度を十キロと超えたこともない。今だって時折メーターを確かめてせいぜいスピードが出過ぎないよう努めていたはずだ。
それともこの道路のどこかで事故でもあって、それを示すしるしがあったのか。
「何かあったのですか。事故ですか」
「事故…… ああ、確かに事故があった」
わたしはちょっと驚いて背後を振り返った。しかしここからでははるか遠くまで続く道のどこにも事故の痕跡など見当たらない。
「へえ、気づかなかったなあ。大きな事故ですか」
「ああ、死者がでた」
男は口調も変えずに言い、さらに続けた。
「さっきの標識で、右に曲がれと、指示されていたはずだ」
「え」
「おまえはこちらの道ではないんだ。まあ、みな始めてだから、まちがえるのもよくいるが」
その言葉の意味が素直には頭の中に入ってこず、わたしはいささか眉を寄せて男を見返した。
「右って……」
走ってきた道をなおも見つめかえすが、右折を指示した標識を見たいという記憶がない。
男の不可解な言葉を耳にして、わたしのこころに警戒心が沸きあがってきた。よく見ればこの男が身にまとっているものも警官の制服とは微妙に違っているようだ。
「ここでUターンして、分岐点までもどるんだ」
「警察官のバッジを見せてくれますか」
言葉をさえぎってそう訊くと、男は一瞬とまどったように見えた。
「バッジ? そんなものはない」
わたしはそうっとキーに手を伸ばした。
「そうですか、わかりました」
しいて笑みを浮かべそういうと同時に、エンジンをかけた。
ハンドルにかけたわたしの手を男がウインドウ越しに強く握った。
「待て。無駄だ。どうせ、戻ってこなくてはいけなくなるんだ。おまえはもう、われわれの世界に行くしかないんだ」
男はサングラスをはずして見せた。男には目がなかった。そこにはただ黒々とした底知れぬふたつの穴が開いているだけだった。
わたしは男の手を払いのけ、一気にアクセルを踏み込んで車を出した。
いったい、何なんだ、あの男は。
サイドミラーに、またたく間に小さくなってゆく男の姿が映っている。
そのまましばらく走っていくうちに、ふと今自分がどこを走っているのか、不安になってくる。ここがどこなのか、わからない。なぜこんなところを走っているのか、どこへ行こうとしているのか、何も思い浮かばない。
わたしは車を停めた。そう、あれは大きな事故だった。制限速度で走っていたわたしの車の横腹に、酒でも飲んでいたのか、それとも怪しい薬でも服用したのか、朦朧とした表情の運転手のあやつる大型トラックが突っ込んできて……。
わたしは道路を覗きこんだ。空に陽は見えなかったがあたりは昼間のように明るい。なのに道の上にはわたしの乗る車の影もわたし自身の影も映っていない。
もう一度背後を振り返ると、遠くにわき道とそのそばに立つ標識らしきものがかすかに見える。氷のようにつめたい両手をハンドルにかけ、わたしは車の向きを変えた。多分あのわき道が、事故で死んだ者の通る道なのだろう。
ミラーを覗くと、黒いふたつの穴と化したわたしの目が見えた。