佳作「一時停止 ハヤシアヤコ」
ああ、暑い。夕方なのに、まだまだ太陽は沈む気配がない。両手に買い物袋をつる下げて、のっそり歩いていると、曲がり角で赤い標識が目に入った。逆三角形の真ん中に白抜きで「止まれ」と書いてある。「一時停止」。わたしは思わず足を止めた。荷物を道に降ろすと、ロングスカートのポケットから手ぬぐいを取り出して、額から流れ出る汗をぬぐう。それから、ペットボトルの水を飲んだ。ゴクゴク、「ぷはあ」
わたしとオットとの関係も、完全に「一時停止」していた。籍を入れて2年。子どもが出来ていてもおかしくない時期だ。それでも、その事に関して向き合おうとしない。わたしたちは「家庭を築く」という任務を完全に放棄していた。いつからだろう。
結婚一年目、オットが「しようよー」と、誘ってくることがよくあった。夕飯の後や、布団に入って眠る前に、甘えてくっついてくる。それでも、わたしはその気になれなくて、適当な言い訳をして断っていた。
「ムードがない」とダメ出しをしたこともある。すると、彼はムードを作ろうと、アロマのロウソクを買ってきた。わたしは彼のリクエストに応えてつるつるの素材の淡いブルーの下着を付けてみたり、彼に、触り方をレクチャーしたりもした。デートの帰りにラブホテルに入ってみたこともあった。
途中まではできても、「本番」にはなかなか辿り着けなかった。たたなかったり、ぬれなかったりすることが続くと、「セックスって、がんばってするものなのかな?」と、むなしくなった。オットが「しようよ」と甘えてきても、言い訳すらしなくなって、「うーん、今度ね」と、優しくキスをしてかわすようになっていった。それが半年程続くと、さすがに温和なオットでもイライラしている様子だった。
オットの誕生日の夜、オットの「しようよ」を、いつものように軽いキスでかわすと、急にピリついた空気になった。
「ねえ、僕のこと、もう好きじゃないの?」
「そんなことないよ」
「じゃあ好きってちゃんと言ってよ」
「うん、好きだよ」
「本当に?」
布団の上に向かい合って座って、真っ直ぐに目をのぞき込まれると、なんだか後ろめたい気分になった。「本当に好きなのかな」自分でもよくわからない。でも、そんなこと言えない。わたしが黙っていると、
「わかった、もういいよ」
オットは、蛍光灯のひもを引いて灯りを消すと、背中を向けて寝てしまった。
急激に寂しくなった。わたしは、オットの布団に潜り込むと、そっと背中にくっついた。
離れていくオットを引き止めたかった。いや、オットから離れていく自分の気持ちを引き止めたかったのかもしれない。
オットの背中に張り付いて、彼の呼吸を感じていると、思わず涙がこぼれてしまった。「なんでこんな関係になっちゃったんだろう。こんなはずじゃなかったのに」
背中で涙を感じたのか、オットはくるりと身体をひるがえして、正面で向き合った。
「なに、ないてるの?」
そう言って、わたしの涙を優しくぬぐってくれた。
「泣きたいのは、こっちだよ」
そう言いながら、今度はわたしの唇にそっとキスをした。それでスイッチが入ったわたしたちは、結婚式の夜以来、十ヶ月ぶりに交わった。気持ちいいとかよくわからずに、ただただ「できた」という達成感に興奮をして満たされた。オットが果てると、お互いに沈黙のまま静かにふいて、一緒に浴室に向かった。
それから、オットが「しようよ」と誘ってくることはなくなった。わたしから誘うこともない。
それでも、二人は仲が良かった。いってらっしゃいのキスや、ハグはしていたし、会話もあるし、二人で出かけることもよくあった。「セックスは一生なくて良い。子どもはいらない」と、納得さえできれば、何の問題もない関係だ。けれど、まだ三十歳なのに、一生セックスしないなんて、悲し過ぎる。子どもだっていつかは欲しい。できれば、自然にセックスをして授かりたい。授かるにはタイムリミットがあるのだ。いつまでも「一時停止」をしてはいられない。
わたしはペットボトルをかばんにしまうと、買い物袋を持ち上げて、再びのっそりと歩き出した。二人の関係も、そろそろ、アクセルを踏み込まなくては。ハンドルをどちらに切ったら良いのか、まだ決断ができないけれど。とりあえず今夜は、発泡酒という名のガソリンを入れよう。