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選外佳作「隣の声 安藤一明」

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作文・エッセイ
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TO-BE小説工房
第21回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「隣の声 安藤一明」

最初にその声に気づいたのは妻だった。私がリビングで、風呂上がりの一杯を楽しんでいると、妻が心配そうな表情でやってきた。

「あなた、お隣から男の子の泣き声がするの」

ここは木造の古いアパートの二階だ。昔の建物だから壁が薄い。隣の声が聞こえても不思議ではない。その分、家賃も安かったので、ここに決めたのだ。私は妻に連れられ、キッチンへ向かった。この薄い壁の向こうは、お隣の斎藤さん夫婦の部屋だ。壁に耳を当ててみたが、何も聞こえなかった。

「君の空耳じゃないのか。男の子は、なんて言ってたんだ?」

「ママ、ママ……って言ってたわ」

斎藤さん夫婦には、三歳の一人息子がいる。どうやら、その声が聞こえたらしい。

「まあ、心配ないだろう」

その時は、私も大して気にも留めなかった。

次に声が聞こえたのは、日曜日の夜だった。私は明日の仕事のために早めに眠りについた。

夜の十二時頃、妻が私を起こした。

「あなた、起きて。また変な声がするの」

私は妻と一緒にキッチンへ向かった。確かに壁の向こうから、男の子の微かな泣き声が聞こえる。その悲しげな泣き声は、こんなことを言っていた。

「ママ、どこにいるの……? ママ、どこへ行ったの……? 早く帰ってきてよ」

私は妻と顔を見合わせた。どうやら斎藤さんの息子が、母親を探しているらしい。

「なあ、斎藤さんの奥さんって、どんな仕事してるんだ? 部屋にいないのか」

「確か、水商売だと思うわ。だから夜は家にいないの。旦那さんも出張が多くて、家にはほとんどいないらしいわ」

「よし。明日、奥さんに一言、文句を言ってやる。幼い息子を放っておくな……とね」

泣き声はすぐに止んだ。

私も仕事で朝が早い。緊急性もなさそうだ。とりあえず、眠ることにした。

朝早く仕事に向かったおかげで、六時には帰ってこられた。

斎藤さんに文句を言ってやろう。隣の部屋のドアの前に立ち、激しくドアをノックする。斎藤さんの奥さんがドアの隙間から顔を出した。顔に化粧を施してある。これから仕事のようだ。私は言った。

「ちょっと、お宅。息子さんは、まだ小さいだろ。旦那さんも家にいない。それなのに息子さんを一人きりにするなんて非常識だぞ。昨夜なんて、ママ、ママ……って泣いていたんだぞ」

奥さんは、狐につままれたような表情をしていた。

「え? 何の話ですか?」

「だから、お宅の息子さんの声が聞こえてくるんだ。昨日の晩も一生懸命に母親を探していたんだぞ」

「昨日? 息子は一週間前から夫の実家にいますけど?」

そんな馬鹿な……。確かにこの耳で男の子の泣き声を聞いたのだ。

「でも、確かに声が……」

「もしかして、隙間かしら? このアパートの壁って、間に少しだけ隙間があるのよ。もしかして、どこかの男の子が落ちちゃったんじゃないかしら?」

それは大変だ。私はアパートの隣に住む、大家の家を急いで訪ねた。

「大家さん。私の部屋と斎藤さんの部屋の隙間に、男の子が落ちたかもしれない。声が聞こえるんだ」

大家のおじさんは、私を怪訝そうな表情で見た。疑うような調子で私に訊いた。

「もしかして、あんた、あれを聞いたのかい」

「あれ? あれって何です?」

「今から十年ほど前のことだよ。あんたの部屋に住んでいたシングルマザーの女が、ある夜、幼い息子の首を絞めて殺害したんだ。女は難病の息子を気の毒だと思って殺したらしい。息子の遺体をキッチンの壁に穴を開けて、その隙間に隠したんだよ。その後、女は川に身を投げて自殺した。このことは契約書にも、きちんと書いてあったよ。家賃が安いのもそのせいだ」

あの声は、最も愛する母親に殺される幼い男の子が、それを知らずに母を慕う声だったのだろうか。

私は自分の部屋に向かった。妻に事情を話し、二人でキッチンの壁の前で手を合わせ、冥福を祈った。

その後、その声は二度と聞こえてこなかった……。