選外佳作「アサヒ いとうりん」
路線バスの中は騒音に近い。駅から乗り込み、僕の隣に座った四人のばあさんが、ひっきりなしにおしゃべりをしている。家族構成までわかるほどに明け透けで、個人情報だだ漏れだと苦笑したとき、隣に座るばあさんの言葉に、僕の耳が反応した。
「孫のアサヒが、W大に入ったのよ」
アサヒ?
「中学のときに不登校になってね、心配したけど、ほら、あの子頭がいいし頑張り屋でしょう。それで、一年遅れでW大に行ったの」
アサヒって、あの旭か?
僕の胸が、ひどくざわついた。
中学の頃、僕は理由もなくイラついていた。同じようにイラついていた仲間と、同級生を苛めた。ターゲットにしたのは、誰ともつるまずに本ばかり読んでいた、同級生の旭だ。
パンやジュースを買いに行かせるところから始まり、金を持ってこさせたり、女子の前でわざと卑猥な言葉を言わせたりした。服を脱がして裸の写真を撮り、ネットに流すと脅して抵抗できないようにした。時々、暴力も振るった。旭は、そのうち学校へ来なくなった。僕達も受験勉強が忙しくなって、苛めは何もなかったようにフェイドアウトした。
旭は、卒業式も来なかった。高校生になると、「旭死亡説」が流れた。中学時代の苛めを苦に自殺したとか、死に切れなくて植物状態になったとか、精神を病んで入院したとか、色々な噂が流れた。それらを聞くたびに僕は、耳をふさいで、すべてを忘れようとした。
隣のばあさんが話すアサヒが、あの旭だったら僕は嬉しい。生きているならそれでいい。重い荷物をようやく降ろせる気分だ。
隣のばあさんが立ち上がり、バスを降りて行った。途端に、その隣にいたばあさんが、たった今降りたばあさんの悪口を言い始めた。
「スミちゃんの言うことは、話半分に聞かないとダメだよ。あの人嘘ばっかりつくから。孫がW大だって? 本当かどうか。実は未だに引きこもっているって噂よ」
W大は嘘なのか? まだ苛めを引きずっているのか? 気になって聞き耳を立てたが、それ以上にアサヒの情報を聞けないまま、そのばあさんは降りてしまった。
「アヤさんは相変わらずだね。孫がいないから、スミちゃんが羨ましいんだろう。やっかみだよ。ああ、いやだ、いやだ」
今度は、今降りたばあさんの悪口が始まった。どうでもいいけど、アサヒのことが知りたい。大学に行っているのか、引きこもっているのか、いったいどっちなんだ。結局そのばあさんも、次のバス停で降りてしまった。
バスの中は、一番端で頷いていたばあさんと、僕だけになった。さっきから黙って愚痴や自慢話を聞いていたばあさんだ。僕はさりげなく立ち上がり、ばあさんの隣に座った。
「あの、ちょっと話が聞こえて……その、スミさんのお孫さんがW大に入ったって……」
ばあさんは、怪訝な顔で僕を見た。
「あなた、アサヒちゃんの知り合いなの?」
「あ……同級生で、その、どうしているか気になってて」
「スミちゃんのお孫さんのあさひちゃんが、可愛いお嬢さんだってことは知っているけど、どこの大学に行ってるかなんて知らないよ」
「えっ? お嬢さん?」
アサヒは女か。それなら間違いなく旭ではない。なんて人騒がせだ。思い出したくないことを思い出してしまった。やれやれと立ち上がった僕の背中を、ばあさんが引き止めた。
「中学校のときに、ひどい苛めに遭っていた旭なら知ってるよ」
振り向いた僕を、ばあさんが険しい顔で見ていた。まっすぐな目が「何もかも知っているよ」と言っているようだ。
「あんたたちが苛めた旭は、私の孫だよ。通信制の高校に行って、今じゃ立派に介護の仕事をしているよ」
目に涙をためて、責めるように僕を見た。
「安心したかい?」
ばあさんの視線が刺さって、凍りついたように動けない。
「でもね、旭は、あんた達を安心させるために生きているわけじゃないよ」
今にも掴み掛りそうだ。身体じゅうで怒りを表わしている。僕は慌てて降車ボタンを押し、降りるはずの停留所よりはるか手前で、逃げるようにバスを降りた。通り過ぎるバスの窓で僕を睨むばあさんの顔が、怯える旭の顔と重なった。
どんなに呼吸を整えても、胸の動悸が治まらない。暑くもないのに汗が止まらない。
旭が生きていたことに、僕は安心している。だけどそれは、旭を想ってのことではない。一生消えない罪悪感を、この先ずっと背負っていくことを思い知った。うずくまる僕の背中を、木枯らしが通り過ぎた。