選外佳作「矢崎氏 真橋明夫」
俺は派遣でデータを入力する仕事をしている。一日中ひたすら数値と文字をキーボードで打つ仕事だ。
これまで派遣された職場は、どこもキーボードの音だけが微かに響いているような静かなところだった。沈黙と静寂を好む俺はこの仕事を選んでよかったと心底思っていた。
ところが、ひと月前から来ている職場がひどい。電話だの、打ち合わせだの、職務と関係のないお喋りだの、いろんな音や声が飛び交っている。俺は初めてこの職場に入った瞬間にすごく嫌だと思ったが、他にさしたる技能もない俺は派遣先を選り好みすることはできない。一度でも断れば、次がないかもしれないのだから。
電話の音が鳴るたびに心臓がドキッとする。笑い声が起こるたびに両手で耳を塞ぎたくなる。ここでは常に忍耐という文字を頭の中で思い浮かべていなければならない。
何より俺を苦しめるのは、俺の隣の人だ。彼は矢崎というが、俺は心の中で悪意を込めてザキと呼んでいる。ザキはお喋りでおまけに声も大きい。ザキは黙って仕事に集中している俺にもお構いなしに話しかけてくる。封切られたばかりの映画を観にいったとか、駅前の新しい居酒屋はせこいから行かないほうがいいとか、宝くじで十万円当たったとか。ザキは正社員だから、俺は心象が悪くならない程度に、てきとうな対応をしているが、本当は「黙っててくれ」と叫びたい。これは一種のパワハラだとさえ思えてくる。
でも今日は、ザキが得意先に立ち寄ってから午後に出社する予定なので、俺は、午前中だけでも、いつもよりは穏やかな気持ちで過ごせると思っていた。
しかし、俺の平穏は予定より早く終わってしまった。ザキがなぜか午前中に出社してきたのだ。奴の出現は姿を見る前にまず足音で分かる。俺はそのせわしない足音が聞こえた時、はじめは幻聴だと思った。ザキは今日、午前中には来ないはずなのだから。しかし、その耳障りなドカドカという音はどんどん近づいてきて、俺の横で止まった。
「あれ、矢崎さん午後からじゃなかった?」
女性の社員の一人が訊いた。
「いやあ、むこうの担当が日付を間違えててさ、今日、出張でいないんだもん」
ザキの無駄に大きな声が響く。
「うふふ。また矢崎さんの方が勘違いしてたんじゃないの?うふふ」
「そんなはずないじゃん。俺の几帳面な性格知ってるでしょ」
「うふふ。そうだった。ごめん。うふふ」
この女性もそうだが、この職場の人たちは皆、ザキと喋る時、とても楽しそうに見える。俺には理解しがたいが、どうも、ザキは職場の多くの人たちから愛されているようだ。未婚の女性たちの中には彼の妻の座を狙っている者さえいるという。ザキは横にいて圧迫感を感じるほどに背が高いし、高名な大学を出てもいる。そしてこの会社の正社員の年収は平均よりも上だそうだ。確かに、ザキは夫とするのにいい条件を持っている。しかし、ザキの高身長も高学歴も高収入も俺にとっては何の意味もない。たとえどんなに条件がよくとも、こんな騒がしくて、うっとうしい奴と日々共に暮らしたいと思う女性たちの気が知れない。
俺は女性たちがこんな噂話をしているのも聞いたことがある。「矢崎さん、SMが趣味らしいよ」「へえ。どっちなんだろ」「Mでしょ。女王様の前で跪いてるのが目に浮かぶ」だがそれは「意外と可愛いかも」らしい。やはりザキはずいぶんと愛されている。
「あれ、田村さん、髪切ったでしょ。なんか心境の変化でもあった?」ザキはお喋りをやめようとしない。
「うふふ、ちょっとね。うふふ」
「もしかして失恋しちゃった?」
「やだ、そんなんじゃないよ。うふふふふ」
うるさいだけでなく、心底どうでもいい内容の会話だ。田村さんの恋愛事情など俺の脳みそのしわに差し込みたくない。今朝は期待していた平穏が奪われたこともあって、俺はいつになく攻撃的な気分になっていた。「お前らうるせえ」という暴言がもう喉元まで出かかっていた。その時、「佐野くん」とザキが俺の名を呼んだ。「はい」俺は出かかった暴言を飲み込んで、かすれた声で返事をした。
「誕生日おめでとう。これ、よかったら」ザキが俺に板チョコを一枚差し出さした「来る途中、コンビニに寄った時、そういえば今日は佐野くんの誕生日だったって思い出して。チョコ好きだって言ってたから。安いものですまないけど」
俺はあまりに意外なことに驚いて、しばらく何も言葉が浮かばず、ただザキのまぶしい笑顔を見ていた。俺は涙が出てきそうになるのをこらえて、なんとか「ありがとうございます」とだけ言った。