選外佳作「酒井さん 岸田奈歩」
「おはようございま」
今日も最後の「す」が言えず、僕はハンカチ(二枚重ね)で鼻と口を覆った。
僕の隣の酒田さんは朝から机に突っ伏し、乱れた長い髪が机を覆っている。
「酒くせえんだよ」そう言いたい言葉をハンカチで覆い僕は席についた。
40歳、独身、すっぴん、よれよれのTシャツ姿、仕事やる気なしの、毎日酒臭い酒井さん。席替えのくじ引きで僕は酒井さんの隣になってしまった。
「池田君、水買ってきて。お代はツケで」
酒井さんはそう言うとオエッとなった。ツケを数える正の字が6個目に突入している。逆う勇気のない僕は水を買いに行き酒井さんの机に置くと妖怪みたいに髪を振り乱して起き上がり、水を一気に半分以上飲み干した。
「胃に染みるわぁ」
と言う息もまた酒くさい。
「ごめんね、また彼氏と上手くいかなくてさ。不倫なんていいことないよねぇ」
「そうに決まってんだろ。バカかお前は」と言いたいのにヘラヘラ笑う自分が嫌になる。
酒井さんは始業のベルが鳴ったのにまた机に突っ伏した。周りの冷たい視線が酒井さんに集まるが、酒井さんは構わず、机に突っ伏し寝たままだ。
酒井さんは結局その日も午前中は突っ伏し、午後から「だるい」を連呼しながら適当に仕事し、定時に帰っていった。
翌朝も酒井さんは酒臭かった。きっとまた
不倫の彼と上手くいかず酒に逃げたのだろう。
が、今日の僕はヘラヘラと水を買いに行く余裕がなかった。自分のミスが発覚しその対応に追われ焦り苛立っていた。
「水買ってきてくれないかな」
僕の状況を見ればトラブルがあったことくらいわかるはずなのに、いつものようにかすれた声で水を買ってこいと頼む酒井さんに僕はさすがにぶち切れた。
「何があったか知らないけど会社にプライベート持ち込むくらいならそんな男、別れるかいっそ殺しちまえよ」
酒井さんはいつもに増してぼさぼさな長い髪を振り乱し、起き上がると僕をじっと見た。
「しまった」
自分の言ったことに後悔がこみあげてきた。
ぶち切れた勢いで余計な事を言ってしまった。殺しちまえとまで言うなんて……。
案の定、酒井さんの目からは今にも涙がこぼれそうだったが、その顔をみて後悔が「泣けば同情してもらえるなんて思うな」という苛立ちに変わった。
「水くらい自分で買ってこいよ」
僕は後悔を断ち切るため語気を強めた。周囲の好奇に満ちた視線が集まる。他人の揉め事は、無責任に見ていられるから面白いのだ。
酒井さんはその視線を避けるように俯いたまま自販機へ向かい、水を飲み干しまた突っ伏し寝ていた。
翌日、酒井さんは会社に来なかった。僕は嫌な予感がした。苛立ちから言ったあの言葉が気になっていたのだ。
「そんな男、殺しちまえよ」
酒井さんならやりかねない。酒に溺れ感情的になった酒井さんが長い髪を振り乱し、男の心臓を包丁で突き刺す場面がくっきりと頭の中に浮かんで離れないのだ。ネットのニュースで「40代OL殺人事件」がないかを確認し、酒井さんの携帯にも電話をかけようとした。そうしているとますます、男を刺し血まみれになっている酒井さんが頭の中に浮かび、全く仕事に手がつかなかった僕は定時退社し酒井さんの様子を見に行くことにした。
しかし、血まみれの酒井さんを見るのが怖くなり、結局引き返してきてしまった。
殺人事件を起こしていたら、あんなことを言った僕のせいだ。酒臭くて腹が立つが人生まで狂わせるつもりはなかった。血だらけの酒井さんを思い浮かべながら、後悔して僕は一睡もできないまま、出社した。
「おはようございま」
今朝もまた最後の「す」が言えなかった。
酒臭いからではない、驚いたからだ。机に突っ伏すことなく僕を見ている酒井さんの髪はベリーショートになり、化粧までしていた。よれよれのTシャツはアイロンのかかったシャツに変わっていた。
「あの男とは別れたよ。池田君のおかげだよ」
呆然とする俺に
「新しい男ができたの、その人、ショートが好きだって言うからさ。ねぇ似合う?」
酒井さんは相変わらず呑気な顔だった。
俺の心配はなんだったんだ。睡眠を返せ。
「でもまた、酒に溺れたらごめんね」
僕は結局酒井さんに振り回される存在のままなのだろうかと思うと腹が立つ。が、ほっとしていた。殺しをしていなかったからだけではない、やっぱり普通の女になっていない酒井さんに、だ。