佳作「ラブストーリーは突然で・・ 黒岩佑理」
私は心を決めた。左手で菓子折の入った紙袋をぎゅっと握り、右手で玄関のドアノブをぎゅっと握った。そのとき、ふいに自分の服装に目がいった。その日はテキトウに目についた服を着ていた。決して悪くはないコーディネートだろう。ただ、余所行きの服装としては相応しくない。私は再びリビングに戻り、クローゼットを開けて、一張羅に着替えた。
「はい」
「隣に越してきた者です。挨拶にきました」
ドアが開き現れたのは、私よりも少し年上だと思われる女性だった。インターフォン越しの声がやけに甲高かったので、嫌な予感はしていたが、その事実をすぐに受け止めることはできない。私の視線は虚ろになる。
西洋系のハーフだろうか。背が高く、目鼻立ちがしっかりとした、「綺麗な」お姉さん。白黒ボーダーの上下スエット姿は「囚人」みたいでまったく色気はないが、部屋というプライベート空間に見合うお洒落さがあった。この場において、黄色のワンピースにパールのネックレスなんかしている貴婦人めいた私の方が変なのだ。
「本日からお世話になります。よろしくお願い致します。これは、ほんの気持ちです。お受け取りください」
必死に感情をコントロールして、抑揚のない声で、事前に調べた「引っ越しの挨拶」を並べ立てた。
と、綺麗なお姉さんの顔に影ができたかと思えば、その頭一個分上に、彼の顔が現れた。
「あっ」
私の顔を認めると、彼は驚きの声を上げた。
「この前は、どうも。お隣さんだったんですね」
彼は笑った。私も笑った。顔は引きつり、目は笑っていなかっただろう。それにしても、彼も「囚人服」で、つまりはペアルックだった。「二人は愛という名の牢獄に囚われているのかい?」私の頭の中にそんな戯言が思い浮かんだ。二人に言えば「ウケる」かもしれない。ただ、そこまで道下を演じることはできない。変なのは、服装だけで良い。
「え、何。知り合い?」
綺麗なお姉さんは彼の顔を見上げた。
「この前エントランスで会ったんだ」
そう、あれは引っ越して間もなくのことだ。
薄顔で、マッシュボブで、細身の体格で、ゆったりとした服装に身を包んだ、私のど真ん中ストライクのタイプである彼とエントランスで顔を合わせた。お互い「こんばんは」と短い挨拶を交わしただけだが、私はその出会いを運命のように感じた。階段を使って先に行ってしまった彼は気付かなかっただろうが、私は彼と「隣人」だという事実をそのとき知ったわけだ。そしてその瞬間、マンガで読んだことのある憧れの恋愛ドラマがこれからはじまるのだと、「行き過ぎた」妄想が一気に膨らんだ。
で、私は仲を深めるキッカケとして、「引っ越しの挨拶」に大きな期待を賭けた。それが、どうだ。なんて様だ! 良く考えれば、こういう展開があることは容易に予測できたはずだ。しかし、私は浮かれきっていた。
それから彼は綺麗なお姉さんの方を向いて、「そんなことより勝手に出るなよ」と強めの口調で言葉を足した。
「え、だって私の家にいる時は勝手に出るじゃん、お返しだよ」
綺麗なお姉さんは口を尖らせる。私は「そうだ、そのまま喧嘩して別れちまえ!」と願った。しかし、すぐに彼女の頭をポンと撫でて、
「女性の一人暮らしだと察知されたら、危ないだろ」
と彼は言った。
「なんだあ、心配してくれてるんだあ」
綺麗なお姉さんは静かに彼の手を握った。二人はしばし見つめ合った。そのまま抱き合って口づけを交わすのではないかと私は焦った。
「あ、ここ、俺の部屋ですから。何かあったら宜しくお願いします」
ようやく私の存在を思い出した彼が笑う。
「分かりました。こちらこそ」
私も笑った。引き続き、顔は引きつり、目は笑っていなかっただろう。
「あ、忘れてました」
私は慌てて紙袋を二人に差し出した。
「これ、私、大好きなの!」
綺麗なお姉さんは紙袋を受け取るやいなや、はねるようなテンションになった。中身はラスクで、デパ地下の中でも人気店らしく、わざわざ行列に並んで購入した。
「美味しくいただきます」
綺麗なお姉さんとは真逆に、彼は冷静に言った。そして挨拶を終え、ドアが閉じられた。それと同時にチェーンがかかる金属音が廊下に空しく響き渡った。