選外佳作「異種格闘技 井中蛙」
俺はマウスピースをきつく噛んだ。さあ戦いが始まる。今日こそあいつとの因縁の対決を制する。俺の周りをゴングが鳴らされた高揚感が包む。
「集中しろ!」俺は自分に言いきかせた。相手はしなやかに腕を伸ばしてきた。俺はまぶしく感じて少し下を向いた。一瞬、喉もとに鈍い痛みを感じた。相手の鋭い一撃が、俺の身体に触れたのだ。俺は苦しまぎれに身をよじった。
「リラックスして」声が遠くで聞こえた。俺は相手の攻撃をじっと耐え忍ぶことにした。いつも最初の一撃であたふたして負けるのだ。そして最後は心も身体もぼろぼろになる。今日こそは勝ちたい。最初を乗り越えれば、わずかだが、楽になるはずだ。俺は構えを変えた。構えを変えると、心に少し余裕ができた。しかし相手はさらに容赦のない攻撃をしかけてくる。二段、三段と連続攻撃が今度はみぞおちを襲う。俺の身体は悲鳴をあげたかのように固まった。
「もっと顎を上げて」また声がした。
「そんなことはわかっている」俺は心で叫んだ。身体が恐怖で相手の攻撃に異常に反応してしまうのだ。格闘技の難しさもここにある。人は人類最強の格闘技は何か? という答えに憧れる。しかし地上最強は空手でもボクシングでもない。まして今流行のバーリトゥードでもない。格闘技において世界最強というものは実は存在しないのだ。戦いはルールと体調と時の運で勝敗が決まるだけだ。俺の体調は万全だ。だが、なんとかしなければこのままではやられる。相手は調子に乗り、俺の胃をめがけて、新たな攻撃を繰り出す。俺のお腹は一気に膨張する。俺は苦しさでよだれを流した。全身を疲労感が襲う。もう勝敗が決まってしまったような気持ちになる。俺の心は折れかかった。
「目を開けて」薄れゆく意識の中でまた声が聞こえた。さきほどから聞こえるこの声はなんなんだ? 俺はだんだん腹が立ってきた。この声は俺の味方なのか、それとも敵か、俺はかっと目を見開いた。まだ勝負はついていない。山が近づいているのだ。この山を越えれば、今のまずい態勢を変えられる。俺はそう信じた。そうすれば前回のような、情けないノックアウト状態にはならないだろう。俺は身体に渾身の力をこめた。相手は最後の攻撃を仕掛けてきた。攻撃場所は急所に近い付近のはずだ。すなわちへその下だ。それが相手のいつもの攻撃だ。涙目になりながらも、相手の攻撃はワンパターンだと分析した。相手は人間の身体を知り尽くしたかのように正確に襲ってくる。人間の急所は頭の上から見ていくと額、鼻、口、喉、みぞおち、胃、最後に睾丸とある。つまり急所はすべて身体の真ん中に集まっているのだ。今はすべての部位を攻撃されたわけではないが、俺はもうくたくたになった。ダウン寸前だ。もう去年と同じ結果でも仕方がないとあきらめた。しばらく脱力感と敗北感が身体を包む。俺はまたもKOされたのか? 気がつくと肩を叩かれた。
「さあ、もうすぐで検査が終わりますからね」優しい声が耳元で響いた。俺はよだれをたれ流しながらモニターを見た。胃カメラの検査医師が胃カメラを抜いていくところだった。その横にいるアシスタントの看護師が、胃カメラを呑むとき使用するマウスピースを外した。検査中の声は彼女の声だった。わずか十分ほどの胃カメラ検査は終わった。俺の知る限り、これほど人を苦しめるカメラは世の中にない。俺は検査を受けるたびに、今度こそはスマートに胃カメラを呑んでやろうと、毎年誓っていた。毎度見苦しい姿を医者たちに見せるのは、男として屈辱だった。しかし今年も返り討ちにあってしまったようだ。俺はふらふらになりながら立ちあがり、検査室を出た。
俺は鼻水とよだれを拭いた、まぬけな顔をしながら考えた。来年も必ず挑戦する。いや、来年は鼻から入れてもらう簡単な検査に変えようか。いや、いや、そんな楽な検査に流れてはいけない。でもやっぱりやせ我慢せずに、鎮痛剤を打ってもらおうか。だが、そんな鎮痛剤で眠っている間に検査が終わるのはどうか。男の矜持が許さないような気もする。いろいろな考えが頭に浮かぶ。来年行われる俺と胃カメラとの戦いはすでに始まっていた。