選外佳作「仮面のまなざし 志水ゆき」
卒業式は小雨にみまわれたが、三日後の日曜日は太陽が雲をはらうほどの晴天になった。
待ち合わせは午前十時。しかし尚樹は誰よりも早く、三十分前に駅前広場に到着していた。陽光は暖かく、三月とは思えないほど穏やかな気温に、桜もかなり芽吹いている。そのせいだろうか。今日はやけに人通りが多い。自分と同じ年齢くらいの男女が愉しげに笑いながら、改札へと歩いてゆく。
尚樹は、噴水の近くにあるベンチに腰を下ろすと、肩から提げていた黒いショルダーバックを外し、膝の上に置いた。
もうじき現れる友人三人は、中学一年からの付き合いだ。男二人、女二人の四人グループで、そのうちのひとりが、これから東京に旅立つ。
「あれ、尚樹くん」
静かな水音に、聞き慣れた女性の声が混じる。顔を上げると、端整な容貌の栞が目の前に佇んでいた。風に翻る長い髪を右手で押さえながら、真っ直ぐな視線を向けてくる。思わず顔をうつむけた尚樹のまなざしの先には、真新しい漆黒のキャリーバックがあった。
「なんか早くない? みんな集まるまで、まだ結構時間あるよ」
栞はおどけた調子で笑うと、尚樹の隣にゆっくり坐った。
「栞だって早いじゃん。ってゆうかさ、荷物そんだけなのか」
「うん、大物は昨日宅急便で送っちゃったの。洋服だけで凄い箱の数だったんだよ。だから冬物はまだ実家にあるんだ」
「へえ、やっぱ栞も女の子だなあ」
深くうなずく尚樹に、栞が「なにそれ」と軽く?を膨らませる。すぐに笑顔に戻った彼女の横顔を、尚樹は寂しげに見つめた。
「そういえばさ、ありがとね」
唐突に礼を云われ、尚樹は目を丸くした。
「尚樹くんが、あたしの夢を真剣に聞いてくれたから、大学に行こうって決心できたんだよ。尚樹くんが背中を押してくれなかったら、地元の会社に就職しただろうけど、でも、いつか激しく後悔したと思う」
栞の言葉は柔らかい。滑らかで、いつ聞いても尚樹の耳に馴染む。普段、教室で話すときは思いもしなかった。栞と話していると、こんなにも気持ちが和むなんて。
栞は僅かに沈黙した。空白の狭間に弧を描いて落ちる噴水の音が、尚樹を現実に引き戻した。
あと、数十分後には、もう栞は居ない。その道筋を作ったのは、ほかならぬ自分なのに、今は後悔が胸の大部分を占めている。
なんで俺は栞に大学進学なんか勧めたんだ。
あのとき、『地元に残って、みんなで愉しくやろう』って云わなかったんだ。
「……あのさ、栞」
「なあに」
あどけない表情で返す栞も、どこか寂しげだ。長い間、同じ時の中で過ごした想い出が、頭の中で鮮明に蘇る。
いやだ、と尚樹は思った。栞の居ないこれからなんて、絶対にいやだ。
不安と焦りが胸を焼き、尚樹はバックの上に置いた拳に力をこめた。緊張で?が慄え、顔が強張る。
「俺……ずっと栞を」
そのとき、大きな水盤に零れる水が、光の玉を抱きながら激しく騒いだ。生まれたての滴が尚樹の首筋に付着し、冷たさから思わず目を見開く。視界に入ってきたものは、限界のない碧空だった。風が未来への径を示している。
「ずっと栞を応援してるから。頑張れよ」
「うん、頑張るよ。尚樹くん、ありがとう」
栞は嬉しそうに微笑むと、元気よく立ち上がった。まるで、そのまま空へ羽ばたいて行きそうな勢いだ。
「それにしても、みんなまだかな」
「そろそろ来るだろ」
尚樹もショルダーバックを開けながら腰を上げた。
「なあ、記念にみんなで撮ろうと思って持ってきたんだけどさ、先に一枚いいかな」
「え、なになに? 写真?」
照れながらも栞は、しっかりポーズを決めている。その明るさが、尚樹の高校生活に彩りを与えてくれていた。言葉も笑顔も、そして共に過ごした時間も、決して忘れない。
気が緩んだ尚樹の目が、みるみる熱くなってゆく。こみ上げる想いも、別れの時間も、すぐ近くまで来ていた。
尚樹はバックからカメラを出した。少し旧式の一眼レフだ。
「あれ、尚樹くん、デジカメもスマホも持ってたよね? 今日はそれで撮るの?」
「ああ、今はこれじゃなきゃ駄目なんだ」
カメラはすぐに尚樹の顔を覆った。表情は栞に見えない。無論、尚樹の?をつたい落ちたものも、彼女が知るはずもなかった。