選外佳作「一九九九年七月 小口佳月」
カメラを買った。カメラと言っても当時の僕が買ったのは二十七枚撮りの使い捨てカメラだ。一枚撮るごとにノブを回し、小指の爪先ほどの大きさのファインダーを覗き込んでシャッターを押す。世界はどうせ、もうすぐ滅びる。ならばこれで好きな女を撮りまくって、十日後の隕石が落ちる日、その人の写真にまみれて死んでゆきたい。ファインダー越しに頼子さんと目が合った。
「なにさっきから撮ってるんだよ」
頼子さんはアイスコーヒーのストローをかじった。
「動かないでよ。せっかくいい絵が撮れるところだったのに」
「こんなおばさん撮って、なにが楽しいの」
むっとして、僕はテラス席の木のテーブルにカメラを置いた。すぐそばに立つ木の葉がざわざわと揺れる。すっかり夏になったと思ったのに、夕方になると冷える。頼子さんはバッグから白いカーディガンを取り出し、袖を通さずに羽織った。
「おばさんじゃねーよ、頼子さんは」
「爽太にとってはおばさんでしょ。あなた十二歳、私、四十歳」
「歳とかもう関係ないよ。どうせ世界はもうすぐ滅びるんだし」
木に止まった蝉が、油を爆ぜるような音を出して鳴いた。頼子さんは長い睫毛で頬に影を作り、アイスコーヒーをすすった。
小学六年生だった僕は、ほんとうにもうすぐ世界が滅びるものだと信じていた。外国の、大昔の人がそう予言したからだ。二十一世紀になる前の年、世界は滅びる、と。隕石が落ちてくるとか、世界戦争が起きるとか、色んな噂があったが、実際何が起こるのか僕は考えただけでも夜眠ることができなかった。
「どうせ世界なんて、滅びないよ」
公園の中、前を歩く頼子さんの写真を撮った。
「そして爽太が大人になったとき、きっとこう思うよ。あのとき世界が滅びていればよかったのにって」
「……思わねぇよ、そんなこと」
振り向き、僕を見る頼子さんの写真を撮った。
「頼子さんは、まだ結婚しないの?」
「仕事が忙しくてね。相手もいないし」
「もし予言が外れて僕が大人になることができたら、僕、頼子さんと結婚してあげるよ」
驚いた顔の頼子さんの写真を撮った。
「前から言ってるじゃん。僕は頼子さんのことが好きだって。僕、本気だよ」
「……無理だよ」
「どうして? やっぱり世界が滅びるから?」
「あんたが大人になるころには、あんたの私に対する気持ちは冷めているからよ。それに、私たちは……」
僕は頬を伝う頼子さんの涙を舌を伸ばして舐めた。苦く、舌に絡みつくのは、涙で溶けたファンデーションだろうか。甘い香りが鼻孔を突く。ファンデーションなんてほんとうは舐めてはいけないものなのだろう。罪を犯しているようで、頭の芯が心地よく痺れた。手を伸ばし、自分と頼子さんにレンズを向けて親指でシャッターを押した。
「ツーショットだ。うまく撮れたかな」
頼子さんは頬を手の平で拭いながら笑った。「このまま世界が滅びちゃえばいいのに」
泣き笑いをする頼子さんの写真を撮った。
「私も、ほんとうはあんたが好きだよ。爽太」
*
世界は、結局滅びなかった。空から隕石が落ちてくることも、世界戦争が起きることもなく、大昔の予言者の名前などみんな忘れて、当たり前のように訪れた二十一世紀を過ごしてもう何年経つだろう。僕は二十九歳になった。
「どうしたの、爽ちゃん。黒いネクタイなんて締めて」
ベッドの中から、同じ会社で事務をしている若い女が顔を出した。
「ああ……今日葬式なんだ」
「うそ。そういうことは早く言ってよ。だったら泊まりになんか来なかったのに」
口を覆うことなく、彼女は大きくあくびをした。
「誰が亡くなったの?」
「母方の叔母さんがね。数年前から病気で」
「叔母さん? 名前、なんていうの?」
「頼子さん」
僕は目の前の頼子さんに夢中になり、あのとき買ったカメラを、現像に出さなかった。今もあのカメラは僕の机の抽斗の中に隠れている。誰かに見つかり、あのカメラが現像に出されることがあったときは、僕たちの秘密は白日の下に晒されるだろう。
あのとき世界が滅びていればよかったのに。変化していく自分の魂を抱えながら、僕は初めて恋をした女の骨を拾いに、黒い靴をこつこつと鳴らした。