佳作「君が見える眼 駒井優梨香」
古びた段ボール箱を開けると、まるで玉手箱の煙のように埃が盛大に舞った。箱の中には見るからに重そうな物ばかり入っていて、手に取ることすら億劫に感じる。固い表紙の分厚い本。針の止まった置き時計。興味を引かれそうな物はひとつとしてない。
哲也が気に入りそうな物をここに入れておいたって、おじいちゃん言ってたわよ。段ボール箱を渡してきたときの母親の台詞が頭に蘇る。恐らく遺品整理を俺に手伝わせるための方便だったのだろう。素直に聞いて自室へと持ち帰ってしまった愚かな自分が恨めしい。
よくよく考えれば、じいちゃんはいつも一人でカメラをいじっているような人だった。俺のことなんてあまり見ておらず知らなかっただろうし、ましてや俺の気に入りそうな物なんてわかるはずがない。
溜息をついて箱の蓋を閉じる。
「なにしてるの?」
顔を上げると、皐月が立っていた。
「なんだ、もう飯の時間か」
姿を見るなりそういったので、「私を時計代わりにしないでよ」と抗議される。
だが皐月が家に来たということは、夕飯の時間を意味している。隣の家に住む皐月は両親が共働きのため、お節介なうちの両親がよく食事に招待するのだ。同じ学校に通っていた中学までは俺が直接声をかけていたが、今は母親が勝手に連絡を取っている。俺ですら知らない皐月のメールアドレスを、母親が知っているというのは複雑な気分だ。
皐月は箱の中身が気になったらしい。細い指先がまるで本のページをめくるようにパタパタと蓋を開けていく。
「田舎から送られてきた、じいちゃんの遺品だよ。埃っぽいから気をつけろよ」
忠告も聞かず、皐月は無心に箱の中へと腕を突っ込んでいる。そして、俺が何の興味も引かれなかった埃まみれの分厚い書籍を手に取ると、まるで綺麗な宝石を眺めるように目を輝かせた。どうやら皐月の目には、この汚い段ボール箱が宝箱に見えるらしい。
「欲しいんだったらやるぞ」
いいの? と尋ねながらも、その胸にはすでに何冊もの本が抱きしめられている。
「あのね、この作家さんの小説、凄く面白いんだよ。担任の先生がお勧めしてくれたの。他の作品も読んでみたくて探したんだけど、なかなか見つからなくて。クラスの子と一緒に本屋にも行ったんだけど 」
進学校らしい清楚なチェックのスカートに埃が落ちる様を眺めながら、本当にもう昔とは違うんだな、と思った。俺は皐月の担任がどういう教師か知らないし、一緒に本屋へ行ったというクラスの奴がどんな女子なのかもわからない。男の可能性だってあると考え、もやもやとした気分になった。
俺は皐月のことを何ひとつだって知らないのではないか? 目の前にいる皐月が急に見知らぬ女の子のように見えてくる。手を伸ばせば触れる距離にいるというのに、とても遠くに感じた。お互いのことを知ろうと言葉を尽くせば尽くすほど、その言葉の数だけまた距離が開いていく。それが歯痒い。
きっと、話を聞きたくなさそうにしているのがわかってしまったのだろう。皐月は途切れるように話を終わらせると、気まずげに視線をさまよわせた。その目が、ふと箱の中で止まる。本を脇に置いて胸を伸ばすと、まるで子猫を抱き上げるようにゆっくりとそれを取り出した。
黒くてゴツゴツとした無骨なフォルム。重厚感のあるボディ。ところどころ塗装が禿げた赤っぽい痕は、むしろそれを歴史ある立派な代物に見せた。
「おじいちゃん、カメラマンだったの?」
物珍しそうに一眼レフカメラを眺めていた皐月が、そう尋ねる。俺は「いや……」と首を振りながらカメラを受け取った。手のひらにずっしりとした重みを感じる。あくまで趣味だったはずだが、記憶の中のじいちゃんはいつもカメラを持っていた。まるでこれが自分にとっての本当の目だとでもいうように。
俺は重たいカメラを目の高さまで上げると、ファインダーを覗いた。
皐月の顔が見える。茶がかった大きな目。泣くと少し赤くなる、すっきりとした鼻。笑うと小さな窪みができる?。そのどれもが、昔から見てきた皐月のものだった。俺のよく知っている皐月。細部まで思い浮かべられる、俺にとって一番近くて遠い女の子。
そうか、俺はずっと皐月を見ていなかったんだ。俺とは違う制服や、俺の知らない話をする姿、そんなものばかりに目を向けて。
「なにを見てるの?」
皐月の声が、いつかの俺の声と重なった。かつて俺も同じ質問をしたことがある。
あの時のじいちゃんのように、俺は悪戯っぽく笑ってみせた。
「大切なものを見てるのさ」